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四角いマットの人食い狼(3)

 三時間後──
 神プロ道場にて。
 二メートル近くの巨体が、鷹が滑空し獲物を捉えるかの如く、鋭いドロップキックを放つ。
『GOD P.W』のロゴが入ったシャツ姿の男は、同じシャツのレスラーの胸板を貫き、一撃でふっ飛ばした。
 練習とはいえ、激しいスパーリング──しかしそれがハラダの流儀だった。

「ハラダくん! 練習中すまない」

 古川は彼に声をかけた。 
 分厚い胸板ながら、プロレスラーとしては細身と言えるだろう。長髪を無造作に後ろでまとめ、その目はレスラーらしからぬ穏やかな目であった。
 もっともこれは練習中だけの話で、実際のリングの上ではまた別の話であるが──。

「古川さん、チッス!」

 ハラダはスパーリング中にも関わらず、リングの下の古川に向き直ると、九十度頭を下げた。神プロにおいて目上の者への礼儀は絶対である。

「うん、精が出てるみたいだね。──社長命令が出たよ」

 ハラダは露骨に眉根を寄せたが、筋肉でむりやりそれを解いた。

「なんすか」

「リブレって団体、知ってるかい」

「あー、まあ知ってますけど」

 スパーリング相手が後ろでむくりと起き上がってくる。練習といえど、リングの上では親兄弟だろうと容赦するな、とは神野の方針である。
 ハラダより一回り体の大きい、相撲出身の選手が腕を振り上げて襲いかかる!

 ハラダはそちらを見もせずに突き出された腕を逆に取ると、まるでダンスをエスコートするように巨体を振り回し、首に左腕を叩きつけた!
 これぞ彼の代名詞とも言える技──通称デスサイズ。神プロの死神の異名を取るハラダの必殺技である。
 受け身に慣れているはずの選手でも地面で呻くしかない。

「古川さんと話してっから、ちょっと黙って」

 息を整えることすらしていなかった。彼にとってこの程度のスパーリングでは、文字通りの肩慣らしにもならないのだ。
 古川は複雑な心境で彼を見上げていた。神野という帝王がいる限り、この天才的なレスラーは永遠の二番手に甘んじる他ない。

 古川としてみれば、将来の──神野引退後の神プロの柱となってもらいたい男である。
 社長の妄執めいた策略の一部とはいえ、外部の刺激に触れさせるのは賛成だった。

「社長が、ベルトを賭けて君とやりたいそうだ」

「やっとですか。遅すぎるくらいだ」

 彼はロープにもたれながら、口角を上げた。

「ただ条件がある。先程のリブレという団体──君にはそこでチャンピオンになってもらいたい」

 まるで鉛を飲んだように、重い殺気がハラダから発せられた。彼にはプライドがある。一流としてのプライドが。

「聞き捨てならねえですね、古川さん──どこのチャンピオンになれって? たしかに今の神プロでの扱いは気に食わねえすよ。別の団体が誘ってくれんなら万々歳ですよ。それにしたって、リブレはないでしょうよ」

 彼の唇が歪んだのは、誰に対しての怒りだったのか──少なくとも古川には、彼に対する説明の義務だけは残っていた。

「……リブレ殲滅がその目的だとしても?」

「あんなちっさいとこ潰してなんか意味あるんですか?」

「ある。だからこそ社長も君に白羽の矢を立てた。特にあそこのローン・ウルフは人気だけでなく実力も一流だからね」

 ハラダは顎を撫でながら思案していた。ともあれ自分がいなくなれば、どれだけ神プロの人気を持っていたか目に見えるはずだ。

 神野はハラダにとって憧れだったが、今は違う。例えるならば冷蔵庫の中にある賞味期限切れの高級肉のようなものだ。昔は良くても今は腐りきっている。
 それにもかかわらず、彼はプロレス界の神で居続ける。あらゆるチャンスは彼によって下げ渡されるもので、人間には制御すら叶わないのだ。

 だが、それも自分が神野を倒せば終わる。神殺しを果たし、神野の神話を文字通り終わらせれば、そうした支配は終わる。
 本当に強いレスラーが、正しく評価され──そして公平にチャンスが与えられる時代がやってくる。
 気に食わないが、ハラダが彼に挑戦するには、段取りがまだまだ必要だった。

「古川さん。俺がリブレに参戦してヘビー級のチャンプになったら、GWGPのベルトを賭けて、社長は俺とやってくれるんスね」

 古川は血が沸騰するのを感じていた。乗った。彼にとっての喜びは、強いレスラーが強くなっていくことにある。それが売上につながるからだ。

「社長は約束を守るし、僕もそれを期待している。間違いないよ」

「わかりました。じゃ、俺も本気だってとこ見せますよ」

 ハラダはリングを降りながら、シャツと同じロゴの入った赤いタオルで首の裏を拭った。

「すぐに試合を組んでくださいよ。……どうせ前座のザコ以下の連中しかいねえでしょ」

続く