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四角いマットの人食い狼(10)

 翌日。
 新宿区『大江戸ビル』十五階。近代的かつきれいなオフィスビルディングの最上階に、その事務所はあった。
 東海興行。威圧的な大きさ木看板には、金箔でレタリングされた会社の名前。どこからどう見てもまっとうな会社でないことは火を見るより明らかだった。

「古川の……そりゃ、わしらも神プロの今後は心配しとる。知らん仲じゃないけんの」

 傷だらけの男だった。白いスーツに身を包み、威圧的な顔をしている──まさしく極道者である。

「でもそりゃ、単なるファンとしての意見じゃけ、勘違いしたらいかん。わしゃ神野という男に惚れただけじゃから」

「私が言いたいのはそういうことでは無いんですよ」

 古川は意を決したようにそう言った。暴対法が強化された昨今、ヤクザとの繋がりが表面化するのはエンタメに携わる者としては致命的なダメージとなる。
 そのリスクを負ってでも、古川にはこの男──有川会会長・有川雄に会っておく必要があった。

「わしゃ、正直言うてよ……神プロに関わることはもうないじゃろ、思うとったで」

 有川は指にタバコを挟んだ。すかさず、後ろにいた強面の部下が歩み寄り、淀みなく火を点けた。機械のような正確な動きであった。

「プロレス言うんは昔、誰もなんも知らんかったけんの。興行打つにも一苦労じゃった」

「そうです。有川さん、あなたは裏の世界に立ちながら、表のイベンターに影響を持つ立場でした。うちの神野はあなたを口説き落として、神プロ最初のプロレス興行を成功させた」

「ほしたら、わしがもう関わりを持ちとうないのも知っとろうが。……神野はの、命かけてプロレスを成功させたんじゃ」

 命を賭けた。立ち上げてから十年後に神プロへ参加した古川だが、その重みはよくわかる。
 当時の神野はプロ空手やプロ柔道で稼いだ金でプロレスをやっていた。ホールを借りるどころか、リングすら満足なものは用意できなかった。路上にロープを張り、硬いマットの上でやったこともあったという。
 当時の有川はバブルの影響も手伝って、ボクシングジムのタニマチをしていた。たまたまそのジムに、当時25歳の神野がやってきたのである。

「プロレスは凄いですよ。最強です」

 口を開くなり、神野はそう言った。

「面白いことを言うのう」

 そのジムにいたのは、バンタム級のランカーだった。有川は屈強な若者でしかなかった神野のハナを明かしてやろうと考え、ボクシング用のリングに上げて、そのランカーとひと試合やってみろ、と言い放った。ボクサーの方はもちろんグローブをつけてだ。
 知ってのとおり、ボクシングにおいてグローブをつけるのは、武器をもたせるようなものである。
 結果は、あっという間であった。一分もしないうちに、神野はそのランカーにタックルで組み付き、後ろへ回ったかと思うと、まるで大木を引っこ抜くように男を持ち上げ、マットへ叩きつけてしまったのである。
 有川がこれを『バックドロップ』という技であることを知るのは、少し後のことだった。
 美しかった。空中で描かれた半円が、まるで半月のように光を孕んでいるかのようだった。
 それをこの神野と言う男は、体だけで表現した。有川は格闘技の試合で、美しいと感じたのは初めてだったのだ。
 誰にも理解されずとも、この男の試合をもっと見てみたい。
 有川は結局、フロント企業を通して堅気のイベント会社を神野に紹介してやり──そこからプロレス団体ゴッドプロレスが誕生する事となる。
 彼は以降、プロレスの試合を見に会場を訪れることはあっても、神野に会ったことはない。それが彼が通すべきだと信じた仁義であった。
 美しいものを見た以上、払うべき敬意や礼儀だとも言えた。メルヘンなことを言えば、花畑を踏み荒らすような真似をしたくなかったのだ。

「わしゃ、今日まで神野に電話一本、手紙一つやったことはない。その代わり、試合はほとんど見とる。それで満足なんじゃ、古川さんよ」

「…本当に満足ですか?」

「何?」

「ですから、それで良いのか、と申し上げています」

 古川は神プロのためなら命を張ることができた。震えることもなく、まっすぐにそう言い放った。

「プロレスは出来損ないのヒーローショーじゃない。真剣な勝負です。強いもの同士が戦えば、勝つばかりとは限らない。違いますか」

「まるで神野が負ける──いや、負けてほしいとでも言いたそうじゃのう」

「彼は無敵でした。無敵すぎたのです。このまま負けずに彼が引退すれば、彼以上のレスラーは存在しなくなるでしょう。いや、ファンによって認められなくなると言い換えてもいい。それは、プロレスの死と同じです」

「プロレス談義は嫌いじゃないが、ワシにわざわざ言わんでも良かろ。あんた、何しに来たん?」

 ふう、と古川は大きく息をついた。ああ、こんなことになってしまうなんて。

「神野と戦おうとしているローン・ウルフという男──彼を妨害してもらいたい。プロレスにとって不都合なマッチメイクなので」

 それは、古川による最終手段であり──神野への決別に他ならなかった。
 神殺しへの加担はもうしている。だがこれは、ハラダという反逆者にナイフをもたせるに等しい行為だ。
 リング外の場外乱闘で、ローン・ウルフを排除する。
 そうすれば、いかなリブレとて、ハラダに試合をさせるしかない。

「古川さんよォ……ヤクザに仕事させようっちゅんは、タダじゃ済まんのんで。ワシらは吐いたツバは飲まん。やる、言うたらやるし、それなりの礼はつくしてもらうことになる。……ましてや、神野を裏切るマネをせにゃならんとなると──あんたにゃそれなりのリスクを負ってもらわんといかんの」

「カネならもちろん払います」

「そりゃそうじゃろ。しかしわしが言いたいんはそういう事と違うんよ。……古川さんよ、あんたはプロレスの神を自分の手を汚さずに殺そうっちゅんじゃ。プロレスファンとしちゃ、許されんことじゃ」

 タバコの灰が落ちて崩れた。古川にとってはその音すら耳障りだった。

「簡単なことじゃ。……あんたにもケジメをつけてもらうで。カタギにもカタギのケジメのつけ方があろう」

 有川は静かに言った。その目にはヤクザとしての輝きと、プロレスファンとしての怒りが混じっていた。

「ことの後には、神プロの経営から降りてもらう。プロレスのため言うんなら、当然よの?」

「しかし、神野が引退して私がいなくなれば、神プロは──」

「やるのかやらんのか、どっちなんじゃ。おお? 古川さんよ。吐いたツバは飲まん。そういうたばっかりじゃろうが」

 有川は思わず応接用の机を蹴っていた。古川はそんなことより、神プロを出なくてはならないことにショックを受けていた。

「やるのか、やらんのか、どうすんのんじゃ? わしゃ聞くこと聞いてしもうたけんの。やることやるだけよ」

 ツバを飲み込む音が、ここまで大きく聞こえたことはない。もはや選択肢は失われてしまった。
 古川は頷いた。プロレスが好きだからこそ、背負わねばならない罪もある。

「わかりました」

「おおし、ほんじゃま、話が早えてええが。ローン・ウルフのことはわしがどがあにもしとくけん、大船に乗った気でおりんさい」

 有川が破顔するのへ、古川は言いしれぬ不安を感じていた。プロレス界への忠誠心が、まるきり間違いではなかったのか──身体に充填されるように不安が高まったのだった。

続く