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黒沢清監督『旅のおわり世界のはじまり』

黒沢清監督の最新作『旅のおわり世界のはじまり』。パンフレット一式の執筆を担当しました。

前田敦子さん演じる(実は歌手志望の)TVレポーターが、ロケの仕事で訪れた異境の地・ウズベキスタンで、言葉のまるで通じない人々や異文化との出会いを通じて自分を見つめ直すという「旅と成長の物語」。パンフレットに寄稿された蓮實重彦さんの表現を借りるならば、「この監督のフィルモグラフィーには類例のない音楽メロドラマ」です。

黒沢映画における本作の「新しさ」を、もう二つほど挙げることができます。一つはカメラが徹頭徹尾、主人公だけを追い続けていること。監督はダルデンヌ兄弟の初期フィルムを引き合いに出していましたが、要はすべてのシーンでヒロインが出ずっぱりで、彼女の目の届かない「一方その頃……」というサブプロットは一切描かれません。

そうすると観客もまた、異郷に放り込まれたヒロインの視点で未知の世界と向き合うことになる。一人でホテルを抜け出してバザールに食事を買いにいくという、たったそれだけの行動が、途轍もなく重大な事件に思えてきたりします。結果、全編に漂う独特の寄る辺なさ、警戒心と好奇心がせめぎ合う緊張感みたいなものが、この映画の大きな魅力だと思います。

そして、旅先で思いがけず顕わになるヒリヒリした「実存感」を、前田敦子さんがこれ以上ないほど見事に体現しています。カメラマンを演じた加瀬亮さんの「職人気質なんだけど、仕事に倦んでいる感じ」、ディレクターを演じた染谷将太さんの「撮れ高ばかり気にして演者に愛情がない感じ」、AD役の柄本時生さんの「どこか他人事のように明るく現場を走り回っている感じ」も、すこぶるリアルで最高でした。

もう一つは、まさに『旅のおわり世界のはじまり』というタイトルそのものです。これまで黒沢監督は、映画を撮影するという行為について語る際に、好んで「世界」という言葉を用いてきました。たとえば2010年に出版された『黒沢清、21世紀の映画を語る』という講演録には、こんな発言が収められています。

 映画で描こうとすることはたくさんあります。まず「物語」というものが挙がりますが、もちろんそれだけではありません。東京の街とか俳優の顔も描いています。九〇分とか一〇〇分とかの時間を描いているという言い方もできるかもしれません。しかし、それら全部を統合して、映画というメディアは「世界」を描くための技術なのだ、というのがどうも僕にとってはしっくりくるようです。(略)
 カメラの目的はただひとつ、切り取ることです。目の前の事物から発する光線を、ただ物理的に四角く切り取る、それがカメラの唯一の機能と言っていいでしょう。
 そして、こうしたカメラの物理的機能の前では、人も街も山も海もまったく平等です。どれもが、あるがままにそこにある、つまりそれは「世界」のことではないでしょうか。カメラが四角く切り取っているもの、それは文字通り「世界」以外の何物でもない、と言えるのではないでしょうか。

このようなテキストを踏まえた後に本作を観ると、『旅のおわり世界のはじまり』という映画そのものが、監督自身の「世界」との向き合い方(=映画の撮り方)を主題にしているようにも思えてきます。

実際、これまでホラー、サスペンス、SF、無国籍アクションなどジャンル映画の約束事を踏襲しつつ強烈な作家性を発揮してきた黒沢監督が、今回はかなりシンプルかつストレートに、自らの海外経験や皮膚感覚を前田さん演じる“異邦人”のヒロインに投影しているように見える。ちなみに自らの監督作に「世界」という単語を用いたのは、実は今回が初めてだそうです。

埃っぽいウズベキスタンの景色を切り取った撮影監督・芦澤明子さんのカメラがまた、本当に素晴らしい。あてどなく歩いているうちに知らない路地や地下道に紛れ込んでしまったり、気が付けばだだっ広い道を横断するはめになっていたり……孤独な旅人の目に映る「美しいけれど、どこか空漠とした風景」を正確に捉えている。バックパッカーの経験のある人なら思わず「あー、そう、この感じ! わかる!」と呟きたくなるショットが満載です。

土曜日の舞台挨拶は、雨にもかかわらず満席。劇中で通訳兼コーディネーターのテムル役を演じたウズベキスタンの国民的人気俳優アディズ・ラジャボフさんもわざわざ来日し、大いに盛り上がりました。大島依提亜さんデザインによる素敵なパンフレットも販売中です。ご興味ある方はぜひお手に取ってみてください。


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