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あの時、僕は確かに「加害者」だった

最近、新しい事業の立ち上げのための準備をしている。

これまでは、セクシュアリティを分析する「anone,」というWebサービスをやっていたのだが、プロダクトの一通りの仮説検証を終えて「ミッションとの乖離」を感じたため一旦開発からは手を引こうと考えている。
また、一向にキャッシュをうむ方法が見つからず、このままでは自分も含めてチームが総倒れしてしまうことも、理由の一つとしてはある。

もちろん、現在も愛用してくれているユーザーさんと、今後このプロダクトに出会ってほしい未来のユーザーさんのために、何とか運営自体は続けていくつもりだ。まだ開発途中のものもあるため、当分は anone, にコミットすること自体は変わらない。(もし anone, に対してアドバイスやフィードバックのようなものがあればぜひ教えていただけると泣いて喜びます)

話を戻すと、事業の立ち上げを考える中で、まずは自分が日頃問題意識を感じていることをざっと洗い出してみたのだが、概ね「差別」や「格差」に直結するテーマが多いことがわかった。

これまでに取り組んできたセクシュアリティ、ひいてはジェンダーはもちろん、国籍や民族による機会差別と格差、身体や精神に関わる障害など。もちろん、自分がそういった環境に置かれたことがあるからこそ、ある種の当事者性を持つことは必然なのかもしれないが、それよりも僕を突き動かしているのは「加害者性」だと思っている。

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いつかの note にも書いたかもしれないが、僕は中学校の頃、いじめを受けてきた経験がありながら「いじめをする側に回っていた経験」もある。いじめだけではない。ダメだとわかっていながら、友達のセクシュアリティを周りと一緒になって笑ったこと。障害があるクラスメイトの目の前で明らかに差別発言と取れるような言葉を口走ってしまったこと。同期の体の辛さを理解することなく、平気で突き放すような態度を取ってしまったこと。

他にも自分が気づいていないだけで、誰かを傷つけてしまっていることがたくさんあるはずだ。もしかすると、僕から被害を受けた経験が一生の傷になって、自分で消そうにも全く消えてくれない、という状況になっている可能性もあるわけで。そんなことを考えているうちに、僕はこのまま生きていていいのだろうか、という気持ちになってくる。こんな文章を書くことすら、許されるのかどうかわからない。

だからこそ、加害者である自分をちゃんと認めて、いつか迷惑をかけてしまった人たちにごめんなさい、と面と向かって言えるようになるために、先に書いたテーマに関心を持ちながら事業作りに精を出しているのだと思う。事業の先には困っている人たちの声があり、こんなことを言うのもおこがましいと感じてしまうが、最終的には自分のことも救おうとしているのではないだろうか。と自分に問いかけてみる。

とあるどこかの偉いおじさまが「プロダクトを作ることと、ユーザーと話すこと以外は何もするな」と言っていたせいか、note を書いている場合なのか…?と疑念を抱きつつ最後まで書ききってしまった。

僕たちが、自分の「やってしまったこと」を素直に認めるのは難しい。しかし、どうか一度でいいから、心が元気な時に「自分が知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまってはいないか」ということを考えてみてはもらえないだろうか。もし思い当たる人が近くにいるならば「ごめんね」と素直に謝ることができれば素敵だし、今は難しくても、その分誰か他の人に優しくなれればそれでいいと思う。そして一人で抱え込んでしまうとどんどんしんどくなってくるので、こうして文章にこっそり起こしてみたり、信頼できる誰かにそっと話してみたりしてほしい。

以上が、僕の免罪符その1、でした。

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