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きみがそこにいるだけで、ぼくは安心するんだよ

 きみがそこにいるだけで、ぼくは安心する。

 しんどいとき、つらいとき、ふと目をやると、きみはそこにいてくれる。ぼくはふいに手をのばす。きみはいつも、同じように応えてくれる。

 だから、ぼくはきみが好きなんだと思う。

 ……いきなり、なんのことかって?

 ポテサラのことに決まっている。

 ポテサラの多くは「付け合せ」として登場する。お弁当の隅っこでおとなしそうに座っている。

 ポテサラは、ハンバーグや唐揚げ、焼き肉といった輝かしい主役たちの「おまけ」として登場する。なかなか主役にはなれない。「ハンバーグ弁当」はあっても「ポテトサラダ弁当」は聞いたことがない。きみの名前が前に出ることは、なかなかない。

 でも、ぼくはわかっている。主役よりも魅力があるきみの価値を。きみのありがたさを。きみの貴重さを。カロリーや油に疲れた人びとはみな、無意識にきみを求めるんだ。濃い味に飽きてきたころ、そのまろやかさに人びとは癒やされる。

 だから、そんなに恥ずかしがらなくていい。もっと堂々としていていいんだ。主役のためにきみがいるんじゃない。きみがいるから主役も輝くのだから。きみがいなければ、きっと舞台は成立しない。 

「ポテサラ」とひとくちに言ってもいろいろある。

 小洒落た店で出てくるような燻製卵を乗せた「ラグジュアリーポテサラ」。ハム、きゅうり、玉ねぎが入った「お母さんポテサラ」もある。ときに、リンゴやみかんを入れた「親戚の家ポテサラ」もある(これは賛否両論だ)。

 どのポテサラも魅力的だ。正解はない。それぞれの答え、それぞれの正義。そう、ポテサラは人類に多様性の大切さをも教えてくれる。

 ただ、やはりぼくが好きなのは、弁当や定食の端っこにちょこんと居座る、あのポテサラだ。あのポテサラが心のふるさとなのだ。

 ときにポテサラはコンビニ弁当のなかにいると、主役と一緒に無慈悲にあっためられてしまうことがある。でも、文句ひとつ言わずに湯気を出す。切ない。なんと健気な存在なのだろう。

 ポテサラは主張しない。謙虚だ。しかし、しっかりとその役目を果たし、今日もぼくらを癒やしてくれる。ポテサラはぼくらに勇気をくれる。主役じゃなくたっていい。どんな人生だっていいじゃないか、と。

 今日もがんばるよ、ポテサラ。

 今日もありがとう、ポテサラ。

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