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温かいデジタル、ないかな

8月はまだまだ真夏のピークと言ってもいいんじゃないかという強い日差しが続く頃、毎年必ずと言っていい程聞きに行く音楽がある。

聞きに行く先は今や全世界で当たり前に利用されるプラットフォームYouTube。

そして聞きに行く音はフジファブリック(Fujifabric)-若者のすべて

青春のど真ん中も片隅も思い出す、優しくも寂しさの入り交じる感情を思い起こさせるメロディーと歌声。DNAレベルで刻み込まれているんじゃないかという位に初めて耳にする者も懐かしさを感じてしまうじゃないかな名曲だと思う。

毎年のように若者のすべてを聞きながら、暮れていく夏や秋の予感を感じる者は自分に限らず少なくないだろう。

そしてそんな人々の気配を自分自身が間近に感じに訪れているのかもしれない。と思わされたのがYouTubeだった。

つい最近自覚したことでもあるけれど、夏の恒例となった習慣は聞きに行くというよりは見に行くと称した方がしっくりくると思える。

知る人も多いだろうけれど、旧ボーカルである志村正彦さんはすでに故人であり、しかしバンドはフジファブリックという形式を保ったまま活動を続けている杞憂な存在である。

YouTubeにアップロードされている公式の楽曲では当時のバンドの姿がそのままに映し出される。

(ちなみにバンドと共に映し出され位置を入れ替えるシンボリックなオブジェ。低い彩度とくすんだ映像がとても好みでこれは変わらないまま。私は若者のすべてを聞くようになったのは志村さんが亡くなられた後からであり、そんな事実との距離感もなんとも言えない寂しさを感じる。)

勿論のこと映像、楽曲、その歌詞も含めて季節を確かめるように楽しむことは毎年の如くだけれど、今はその流れのままにコメントを見ることが一つの習慣になっている。あぁ自分は楽曲と共にこのコメントを見に訪れるているんだな、というのは最近気がついたことである。

フジファブリック公式チャンネルのコメントはユーザーのコメント入力が開放されている。そのコメントは2021年時点で7,000を越える。

コメントには当然のことながら、開かれたチャンネルであれば支持するアーティントについて思いの丈、楽曲に対する感想が溢れていて、ある種コメンターのコミュニティになっている。

YouTubeのコメントは頻繁に開くことはないけれど、稀に自分以外の他者がどのような印象を覚えたのかということが気になり覗き見ることがある。若者のすべてのコメントを初めて覗き込んだのも特に深い理由は無しになんとなく、という位だった気がする。

そんな若者のすべてのコメントは毎年のように投稿が増えている。

週末も自宅にいる時間が増え、考えることも多くなった2021年。そこに折り重なっていく言葉の数々を見て、毎年自分自身が温かい気持ち、楽曲のような優しさだったり寂しさのような気持ちを受け取りに行っているんだなということを実感してた。

近年のコメントの一部はこのような内容である。
ここ1、2年だけでもかなりのコメントが更新されている。

・他アーティストのカバーを通して楽曲をしり訪れたこと
・最近になってこの曲を知ったという切なさの吐露(私と同じように)
・歌詞にあるような花火という言葉に惹かれて花火師になったという告白
・令和の今、楽曲は教科書に載ることになったという志村さんへの報告

実際にこれらのエピソードの真相は分からない。
(その真はこのコメントを見る者に委ねられ、見た者にとって感じたことが見たも者の世界では真実になる。その確証がどこにあるかといったことはさて置いて、と思うのはあくまで私自身の考えである。)

そう。

こういったコメントを見ていると、夏という季節の移ろいを感じるということもそうだけれど、フジファブリックというバンド、そして故人となってしまった志村さんを尊び毎年のようにこのコメントに訪れる人々がいることを感じとれるのだ。

自分自身に起きた出来事も、時の流れとともに起きた社会の出来事も、数々のコメントからそこに込められた想いを、そこに介在する人の気配を感じずにはいられない。

生活線上で出会うことはないであろう多くの人々が、まるでお盆という季節を感じさせるかのようにYouTubeという現代的なデジタルプラットフォームに訪れ、温度の込められた言葉を置いていっている。

デジタルという文明の利器、その中に存在するプラットフォームは渡し手や使い手によりコミュニティの温度も気配も変わる。必ずしも温度の宿るような場所ばかりではない。

けれども若者のすべてを通して見た景色。そこには季節が巡り時が流れたとしても、共通する温(音)源のようなものを中心に温かさが宿り、その積み重ねが小さくとも文化のような現象が息づいている。

デジタルとその付き合い方は現代を生きていく人々の関わり方次第でこれからも大きく文化体が良くも悪くも変わり続けるだろうけれど、そんな不確定な流れの途上において若者のすべてに馳せた思いは自分の中でデジタルに見た一つの明かりだった気がする。

デジタル上に温度なんてものは存在しない。
けれども、映像や音楽や文字を通して、見るものの心に温もりは宿る。

デジタルを通した温かさが少しでも多く生まれるといいな。
ないかな ないよな そんなリリックのリフレインに重ねるように思いは巡る。

夏はまだ続く。

困難な時代の夏の暑さは例年以上に堪える気がするけれど、また今年も若者のすべてを取り巻く人々の言葉を見ることで過ぎていく季節を感じよう。

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