デイヴィッド・グレッグ『あの出来事』のためのノート3

 刊行されている『あの出来事』の戯曲には、初演時の演出家ラミン・グレイが記した覚書が付されている。わずか1ページの短い文章だが、グレイが、演劇は舞台と客席との間の相互作用から生まれる芸術だと、わざわざ確認するところから稿を起こしているのが興味深い。と言うのも、この劇では舞台上の演者のみならず、観客の側にも光が当たるからだ。
 作者デイヴィッド・グレッグは、ふだんから活動している実在の合唱団が、作中で銃乱射事件の犠牲となる合唱団の役を演じるよう指示している。イギリスでの上演では、毎回ちがった合唱団が劇場に招かれたそうだ。合唱団は事前に最小限の段取りの指示を受けるだけで、劇の内容についてはなにも聞かされていなかったという。目の前で起きる出来事をしっかり受け止めて、素直に反応することが求められた。事態の予想外の展開に当惑しながら、舞台を右往左往する合唱団は、客席にいる観客の代表者となっている。あるいは、共同体を揺るがす大事件に直面し、その余波に翻弄される人びとの似姿とも言ってよい。
 このように、『あの出来事』はユニークな趣向が非常にうまく機能している作品だが、グレッグが観客に劇への参加を求める戯曲を執筆したのは、これが初めてではない。本作より2年前の2011年に発表された『こわれもの』(Fragile)でも、観客が大きな役割を果たす。10ページほどの短い戯曲で、「シアター・アンカット」(Theatre Uncut)というイベントの演目のひとつとして、ハナ・プライス(Hannah Price)の演出で初演された。
 この「シアター・アンカット」を「カットされない演劇」と直訳しただけでは、その意味がいまひとつ通じないだろう。当時のイギリスの保守・自民連立政権が行なった公的支出の大幅なカットに抗議する演劇人のイベントである。プライスの呼びかけに応じて、マーク・レイヴンヒル(Mark Ravenhill)や、デニス・ケリー(Dennis Kelly)ら8人の劇作家が短編戯曲を寄稿し、ロンドンのサザーク劇場で上演された。寄稿者のなかには、まだその名をひろく知られる前のルーシー・カークウッド(Lucy Kirkwood)も含まれている。グレッグの『こわれもの』は、助成金削減によるコミュニティセンターの閉鎖を主題にした二人芝居だ。
 登場人物は、コミュニティセンターでメンタルヘルスのサポートを受けているジャックと、彼を担当している女性カウンセラーのキャロラインだ。面白いのは、舞台にはジャック役の俳優しか登場しないことである。劇の冒頭でグレッグは、じゅうぶんに演劇への助成金が得られない風潮下では上演予算を節約しなければならないため、本作を俳優1名で演じることにしたと観客に説明する。ついては、相互扶助の精神にのっとって、キャロラインの役は観客全員で演じてほしいと依頼するのである。舞台の上のスクリーンに、パワーポイントでキャロラインの台詞が投影され、それを観客がそろって口にすることで劇が進行してゆく。
 このようにパワーポイントを活用した上演方法を、遊び心に富んでいると感じるか、あるいはおふざけの度が過ぎると考えるかは人それぞれであろう。ただ、本作が公的支出削減反対という明確な政治的な目的をもって書かれていることを忘れてはなるまい。観客はキャロラインに代わってジャックと応対することで問題の所在を確認し、彼女の言葉を全員で声に出して読み上げることで一体感を共有する。シュプレヒコールの強要などに訴えることなく、きわめて洗練されたかたちで観客を政治参加に誘う劇なのである。
 平易な英語で書かれた短編だ。『あの出来事』の観劇前に一読すれば、デイヴィッド・グレッグの作劇法の引き出しの多さを感得できると思う。


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