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戦後日本の居住文化

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間取り集、家相本、日曜大工・・・。戦後日本の居住文化を紐解くことで、わたしたちにとっての住まいを再考します。
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記事一覧

植田展大『「大衆魚」の誕生』から「マイホーム」の誕生を妄想する

待ちに待った新刊、植田展大『「大衆魚」の誕生:戦間期における水産物産業の形成と展開』(東…

高度経済成長期の「受胎告知」|1961年「ナショナルテレビ・カタログ」を読む

たまたまヤフヲクで手に入れた松下電器産業「ナショナルテレビ・カタログ」。1961年版のそれは…

あたらしい「しきたり」|塩川弥栄子『冠婚葬祭入門』を読む

戦後日本の住宅を再考するためには「新婚住宅」について調べなければ、という問題関心の一環(…

ぼくは王子様になったようだ|1960年代、プレハブ勉強部屋という「お城」

ヤフヲクで入手した古雑誌をつれづれなるままにペラペラめくっていたら「永大の勉強部屋」(永…

「建築家住宅」批判の語られ方|「家は建てたが…」座談会から小島信夫、山口瞳の家づ…

建築家に依頼して自邸を建てた文化人たちが、いかにヒドイ家を建てられ憤慨しているかを語り合…

伊勢湾台風から64年|竹内芳太郎「海の中の干拓地」と小菅百寿『農村のブロック建築』…

9月26日で伊勢湾台風から丸64年を迎えました。真珠筏を心配した祖父がこの台風で亡くなったこ…

救援物資にもなった組立家屋|キートンの短編映画「文化生活一週間」をみる

里見弴の小説「極楽とんぼ」(1961)にこんな文章が登場します。 さらにこう続きます。 この「救援物資」とは、関東大震災で甚大な被害を受けた日本を支援すべくアメリカから贈られたもののこと。当時「レデーメードハウス」「出来合建築」などとも呼ばれていた「組立家屋」も「一番の大物」として注目されたそう。アメリカ製の「組立家屋」は「バンガロー式」と呼ばれる小住宅で、1920年代前半には日本へもちょいちょい移入されていました。その一例、神奈川の内藤彦一邸(1920)はシアトルにある

『夢の新婚住宅をあなたも|戦後家族のつくられ方』【妄想企画メモ】

たまたま名古屋松坂屋がたぶん1960年代後半に出してたと思われるカタログ『FOR YOUR Bridal』…

「家庭」写真の写し方/近代「家族」のつくり方|1950年代写真マニュアル本を読む

写真はまったくの門外漢で、スマホ撮影のみな日常ですが、ひょんなことから「家庭写真」本をコ…

「箸の日」に読みたい民俗学者・高取正男「生活の知恵」|ボクのお茶わん・ワタシのお…

8月4日は #箸の日 です。 1968年から69年にかけて朝日新聞に連載された「生活の知恵」には、…

文化国家の子どもたちへ|田辺平学の児童書『世界の家:21のナゾ』を読む

1922年、東京帝大建築学科を卒業した若き建築学者・田辺平学は、同年9月、建築構造学の研究を…

あの家もやっとうだつが上がった|民法学者・中川善之助の「うだつ」を読む

出世しないとか、お金に恵まれないなどの境遇を指して用いる慣用句「うだつが上がらない」。よ…

未来の働きものに贈る住居学|建築史家・藤島亥治郎の児童書を読む

戦後の再出発にあたって「働きものの『みつばち』のように、勉強に励み立派な人間になる」、そ…

『マイホームの練習|戦後経験主義教育と単元「住宅」』【妄想企画メモ】

1950年代はじめ、悲惨な戦争を乗り越え、あたらしい日本社会を築く民主主義マインドを持った人材を育成するため、戦後新教育がスタートします。小学校や新しく設けられた中学校の各教育でも、民主主義に即した教育の展開が求められました。 そんな気運に乗って小中学校教育では、理科や社会、さらには数学や図画工作でも「住宅」を取り扱う単元が存在しました。いまでは、技術科や家庭科でお目にかかるくらいの「住宅」が、さまざまな教科で、しかも複数教科を横断して、あらゆる角度から児童・生徒自らの住環