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三井Uハウス|飯塚五郎蔵と集成材住宅の夢

ハウスメーカーが手がけるプレハブ住宅とはどんなものか。まだそのカタチもイメージも模索段階だった1960年代はじめに登場した「三井Uハウス」。湾曲した集成材を骨組みに取り入れた大胆な住宅は、その後すっかり忘れ去れてしまいます。それは一体どんな提案でどんな夢が込められていたのでしょうか。

夢のプレハブ住宅

東京オリンピックを間近に控えた1964年4月、主婦と生活社が発行する月刊誌『主婦と生活』は、プレハブ住宅についての特集記事を掲載します。題して「これからのあなたの住まい:プレハブ住宅とは?」(図1)

図1 プレハブ住宅の特集記事

特集冒頭には「セキスイハウスB型」(積水ハウス)の内外観写真とともに、次のような文章が掲げられています。

木材の値上がりで新建材の進出がめざましいことや、人手の不足から、数年後の住宅はプレハブブームになりそうです。プレハブ住宅はこれまでの住宅より耐震、耐熱、防暑防寒にすぐれていて、しかも値段は普通の建築費と同じぐらい。これから新築する方には見のがせない存在です。そこで、このプレハブ住宅に実際に住んでいる方や、専門家の意見を聞いてみましょう。
(主婦と生活、1964年4月号)

毎号の連載企画「吉沢久子カメラお住まい訪問」第三回を特集に組み込み、大和ハウス工業の「ダイワハウスA型」を紹介。さらに軽量型鋼、木材を主とした事例、そして、3坪タイプの事例を紹介しています。

さらに記事「プレハブ住宅が建ち上がるまで」、「プレハブ住宅についての質問集」とつづくその特集からは、プレハブ住宅が大いに注目されつつも、未だ一般庶民には馴染みが薄い当時の雰囲気がひしひしと伝わってきます。そもそも、大和ハウス工業「ミゼットハウス」販売開始が1959年、積水ハウスの「セキスイハウスA型」が1960年に登場したばかりなのですから。

この記事に紹介されているプレハブ住宅を眺めていて「えっ!何これ?!」となる写真があります。ご覧下さい(図2・3)。

図2 三井集成材住宅の紹介部分

図3 三井集成材住宅に住まい森さん

この紹介事例は、三井木材工業手がけるプレハブ住宅「三井集成材住宅」。一体これはどんなプレハブ住宅なのでしょう。

三井木材工業、渾身のデビュー作

子どもを膝に置いて、なぜか雑誌を見ながら笑ってるお母さんも気になりますが、そんなことより室内を不自然に枠どっている材木が不思議な気持ちにさせます。U字型に湾曲した構造材で空間を支えるのが、この「三井集成材住宅」の特徴。後に「三井Uハウス」と名称変更されるのですが、当然「U」の字は、この集成材の形に由来するもの(図4)。

図4 三井集成材ハウスのチラシ

「三井集成材ハウス」改め「三井Uハウス」は、三井物産系列の会社だった三井木材工業(今は存在しない)が、建築構造学の権威で横浜国立大学教授にあった飯塚五郎蔵が共同開発(注1)、1962年に販売開始されたプレハブ住宅でした(図5)。

図5 三井集成材ハウスの外観

当時のチラシには「高級木造プレハブ住宅:三井Uハウス」と銘打ち、「高温多湿の日本の気候風土にもっとも適し、ながい文化的伝統をもつ、日本人の生活感情にピッタリ合った”木造家屋”―その良さを現代生活向きに息明日のが”高級木造住宅”と呼ばれる〈三井Uハウス〉です」とあります(図6)。

図6 三井Uハウスのチラシ(表面)

さらに注目ポイントとして掲げられるのが、①住み心地の良さ、②スマートな外観、③間取りは自由、④丈夫な構造、の4つです。プランは15坪タイプ「U15」と20坪タイプ「U20」の2種類。手元にあるチラシには価格も記載されていて「U15」は133万5千円、「U20」は175万円(図7、注2)。

図7 三井Uハウスのチラシ(裏面)

ちなみに、記事に登場する森さん一家は「U20」にお住まい。「このプレハブ住宅を選んだのは、私が妊娠していたため、大工さんのお世話ができないことと、工期が短いことが何よりだった」ことと「モデルハウスを見て木造のなんとなく落ち着いた感じがよかったから」だと説明しています。旧習からの自由さと、木質感への信頼。大工的世界への信頼と距離感(図8)。

図8 三井集成材住宅の広告

先述の通りU字形の集成材を横に寝かせた状態の主体構造が大きな特徴。『建築知識』で特集され、後に単行本化された『「奇跡」と呼ばれた日本の名作住宅50』(エクスナレッジ、2014)にも採り上げられていて、次のように説明されています。

建物名にもなっているU形集成材とは弓を深く絞ったかたちの集成材のことで、小屋梁、柱、床梁を一体として、風や地震の水平力に耐えるように計画したもの。梁間5.4mに対して、U形集成材の断面寸法は一様に90×150mm。この架構を2.7mおきに並べ、屋根、壁、床それぞれの単位パネルをボルトなどの金物によって取り付ける。内部は浴室とトイレ以外、間取りは自由。
(『「奇跡」と呼ばれた日本の名作住宅50』、2014)

実のところ、開発当初は、U字形の湾曲部分の外装を屋根から壁にかけて一体的に同じ材料で仕上げる構想だったといいます(図9)。

図9 はじめの構想スケッチ(下図)

ただ、そうした場合、外装材をどうするかが問題となり断念。その結果、骨組みをスッポリと覆う屋根と壁のパネルを用いることになり、外見上は至ってフツーな住宅になりました。飯塚はこう回想します。

設計者の夢としては、片流れ屋根から曲面壁に連続して側面から見ると、彗星のような、あるいは当時はじめて宇宙を飛んだスプートニクの勇姿をイメージするものにしたかった。けれどもこんな家が一般住居の中に点在したり、何百戸も建った景観を考えると感心しない。平凡でもこれでよかったと思う。
(飯塚五郎蔵『デザインの具象』1989)

商品開発時の〈理想〉と、実際に建ち、住む段階になったときの〈現実〉。両者のあいだにある溝は、三井木材工業と飯塚五郎蔵がその後いくたびか直面する問題となるのですが(それゆえに飯塚も回想しているのでしょうが)、そのことについてはまた後ほど。

この「三井Uハウス」は、同社が住宅事業に参入するまさにデビュー作として位置づけられます。林野庁開庁80周年を記念した農林水産展イベントが行われることになり、林業試験場の小倉武夫部長の勧めで、三井木材工業が出品することに。では、昨今注目されるプレハブ住宅を、ということで、その設計は飯塚五郎蔵に依頼されました(図10)。

図10 農林水産展でのモデル住宅建設風景

三井木材工業と飯塚五郎蔵の縁

三井木材工業と飯塚五郎蔵の縁を結んだのも、また「集成材」でした。1954年、三井木材工業は名古屋工場の倉庫建設にあたり、約15mのスパンをラワン挽材によるアーチでつくることになり、建築研究所所長・竹山謙三郎や林業試験所などのバックアップのもと実現。建設の際の全工程データを論文にまとめ『木材工業』誌にて公開したといいます(『三井木材工業のあゆみ』)。

その論文が、ちょうど成城学園幼稚園(図11)の設計にあたっていた飯塚五郎蔵の目にとまり、梁材として使用する米松集成材を三井木材工業へ製作依頼するに至ったのです。

図11 成城学園幼稚園に用いられた集成材

集成材アーチ構造は、飯塚にとって重要テーマかつモチーフだったわけで、その縁あってモデル住宅の設計依頼へつながり、だからこそ「三井Uハウス」には集成材をメインに構成されなければいけなかったのです。余談ですが、もともと積層材ともっぱら呼ばれていたのに「集成材」と造語したのは三井木材工業だそう。

「大工さんを感心させたプレハブ!」という謳い文句とともに売られた「三井Uハウス」以後も、飯塚は三井木材工業との協働で、「三井Hiハウス」(1964、図12)、三井ハウスE型(1965)、「三井ハウスF型」(1973)と展開していきます。

図12 三井Hiハウスのチラシ

飯塚五郎蔵と工業化住宅の夢

「三井Uハウス」の生みの親・飯塚五郎蔵は、1921年、演劇研究家・飯塚友一郎と日本舞踊家・飯塚くに(坪内逍遙の養女)のあいだに生まれた。1943年9月、早稲田大学を卒業後、同大大学院を経て、1949年、同大学助手、さらに1950年以降は横浜国立大学にて教鞭をとった人物。飯塚の手がけた幅広いフィールドは、たとえば以下の主要著作リストにもうかがえます。

『建築主の為めの中小工場建築の実際』ダイヤモンド社、1948
『新しい住宅の構造』彰国社、1950
『建築講座8材料』彰国社、1957
『ブロック造と軽量鉄骨造』(共著)オーム社、1961
『建築用集成木材とその構造法の研究』博士論文(早稲田大学)1961
『住宅設計のための材料チェックリスト』(共著)工業調査会、1968
『建築総合演習:構造力学(1)』(共著)彰国社、1975
『住宅デザインと木構造』丸善、1982
『木造住宅構法』(共著)市ヶ谷出版社、1988
『外壁構法チェックリスト』学芸出版社、1988
『建築総合演習:構造力学(2)』(共著)彰国社、1988
『デザインの具象―材料・構法』エス・ビー・エス出版、1989
『建築語源考:技術はコトバなり』鹿島出版会、1995

この他にもたとえば『モダンリビング』誌にもたびたび、プレハブ住宅に関する解説記事を執筆しています。それこそ、1958年に建設した自邸「軽量鉄骨の高床住宅」は、自らが研究する軽量鉄骨系工業化住宅の試作第1号として設計・施工されました。

そんな飯塚が大学院で飯塚が研究テーマに選んだのは「住宅の工場生産化に関する研究」(指導教授は十代田三郎)でした。敗戦後の圧倒的な住宅不足を受けて「組立住宅」による大量生産方法の研究・開発は喫緊課題。飯塚もその問題解決に尽力したのです。

飯塚は住宅提案も手がけていて、戦後、彰国社がたくさん出版した若手建築家たちの住宅図集のうち、『小住宅図集』(1946)や『新時代住宅図集』(1948)、『洋風住宅図集』(1950)に、飯塚の提案が複数掲載されていたり、帝国人絹主催設計コンペには、永田堅蔵との共同で応募した案が入選3席に、さらに『新建築』(1947年10・11月号)にもプレハブ住宅試案(パネル式の「PH-12A型」と骨組式の「SH-12A型」の2案)が掲載されたりしています(図13)。

図13 プレハブ住宅試案

こうした工業化住宅についての研究・提案のソースは、国内外の雑誌に掲載された最新情報だったり、十代田三郎が海外から持ち帰った資料のほか、アメリカ文化センター経由のものだったりしました。そして、何よりも幸いだったのは「実物を見ることができた」こと。そう飯塚は言います。その「実物」とは、つまり進駐軍の兵舎(図14)。

図14 海兵隊の鉄骨カマボコ兵舎

それはアメリカ軍の組立兵舎であり、東京や横浜の都心焼跡にたくさん建てられた海兵隊の鉄骨カマボコ兵舎と、陸軍の木造組立兵舎である。建てている所に入って行くと、米兵が快く見せてくれ、説明もしてくれる。施工マニュアルをもらったり、拾ったりして勉強した。
(飯塚五郎蔵『デザインの具象』1989)

こうした文献・実地両面での調査・研究の成果が、著書『新しい住宅の構造』(1950)としてまとめられました(注3)。ただ、敗戦後に花を開きかけた工業化住宅の夢は、前川國男の「プレモス」ですら軌道に乗ることができずに終わってしまいます。飯塚いわく「なんとなく燃え上がらないままに去っていった」と。

ここで不発に終わった工業化住宅の夢は、少し間を置いて、1960年頃から再び息を吹き返すのです。飯塚が三井木造工業と共に手がけた「三井Uハウス」も、そうした動きのなかで、世に投じられた「これからの住まい」だったのです。

三井木材工業の迷走

1960年、池田内閣の所得倍増計画発表を受けて高度成長路線がスタートすると、住宅産業もまた爆発的ブームとなりました。当然に、三井物産設立以来の木材事業をルーツにもち、木質系建材を主業務に位置づける三井木材工業も住宅事業へ進出しないわけがない。

さっそく同年、社内に「集成材利用組立ハウス研究会」を設け、先述したようにU型集成材を使用したモデル住宅の試作に至ります。良く1961年10月には住宅事業として企業化、販売をスタートしたのでした。以降、同社の住宅事業は次のように展開していきます(注4)。

1961 三井集成材ハウス、第一回出展(日本橋三越本店屋上)
1962 三井Uハウス発売
1964 三井Uハウス、工場生産住宅として認定
   三井Hiハウス発売
1965 三井ハウスE型発売
1968 総合住宅展示場開設(千代田区大手町)
1973 三井ハウスF型発売
1975 三井ハウスG型発売
(参考:『三井木材工業のあゆみ』1981)

ただ興味深いことに、社史には次のような表現が登場します。

「三井集成材ハウス」は15~20坪の平屋建、U字型集成材を構造材とし、きわめて独創性の高いものであった。しかし、住宅としての機能や居住性よりも建築素材、構造材としての当社建材のPRに重点を置いたために、住宅本来の良さをPRし得なかったことは反省されるべき点であった。
(『三井木材工業のあゆみ』1981)

三井木材工業といえば集成材。その三井木材工業が手がける住宅である以上は、当然に「見よ、これが集成材であ~る!」と目に見えるものでなければいけない。そんな思いが最優先されたのでしょう。ちょうどその数年前に積水化学工業がオールプラスチック住宅を夢見ながら、結局それを断念せざるをえなかったエピソードを思い出します。ただ、プラスチックと違って、集成材は実現してしまえた点が技術的に長所であり、営業的に短所であたのではと思えてきます。

住宅に集成材を用いることについて、飯塚は後に次のように語っています。

集成材アーチ構造をふつうの住宅の骨組に適用することは少し大げさである。(中略)それよりも、住宅では集成材をインテリアデザインの素材としてもっと活用すべきである。
(飯塚五郎蔵『デザインの具象』1989)

体育館などの大きな建築にはいいけれども、住宅には「少し大げさ」だと。三井木材工業のプライドの中心にあった「構造としての集成材」は、住宅にはそぐわない。むしろ「インテリアデザインの素材としてもっと活用すべき」だと。それは、先に引用した次の言葉とも対応しているように思えます。

けれどもこんな家が一般住居の中に点在したり、何百戸も建った景観を考えると感心しない。平凡でもこれでよかったと思う。
(飯塚五郎蔵『デザインの具象』1989)

適当な外装材がないという技術的問題は、結果的に「三井Uハウス」のある種の勇み足を抑制したのだけれども、U字形の集成材を骨組に用いる選択を阻むものはなかったわけです。

しかも時代は刻一刻と変化していきます。あっという間に時代は平屋建てから二階建てに。プレハブ住宅も1965年には「ナショナル住宅R2N型」1966年には「大和ハウスB型」、「セキスイハウス2B型」といった二階建て商品が続々登場。三井木材工業と飯塚のコンビも、2階建住宅「三井Hiハウス」(1964)、2階の増築を容易にした「三井ハウスE型」(1965)を投入していきます。

ただし、湾曲した集成材を売りにしたのは「三井Uハウス」のみで、以後は、直線集成材を柱・梁に活用したものへとシフト。1960年代後半の状況について社史は次のように説明します。

住宅ブームの進展はさらにテンポが早く、様式に対する嗜好も多様化した。そこで、当社の方針もプレハブ住宅のみに固執せず、在来工法による注文住宅建築にまで範囲をひろげ、同時に対象とする顧客をやや高水準におくこととした。
(『三井木材工業のあゆみ』1981)

プレハブ住宅から在来工法への転換。1973年の「三井ハウスF型」も飯塚が手がけているものの、ほぼ在来工法に準拠したものへと変わりました(図15)。

図15 三井ハウスF型の構造概念図

三井木材工業は住宅産業の荒波に飲み込まれないように、工業化住宅、集成材住宅の夢を封印したのです。そうした数々の試みが進められるも、住宅事業の業績はなかなか好調とはならず、さらにオイルショックによる打撃に、三井木材工業もまた見舞われることになります。

理想と現実のあいだから

1976年、三井木材工業は住宅事業改善委員会を設置、そして改革案を社長に答申します。売上高向上のほか、直販体制の導入、首都圏地域の重点化などにならんで注目されるのが、「商品構成を在来工法住宅、工業化によるF型住宅の2種併用とし、高級化路線をとる」という方針でした。

そもそも「三井ハウスF型」自体が、それまでのラインナップにおいて、もっとも在来工法に寄せたプレハブ住宅でした。そこにさらにフツーの在来工法住宅を位置づけたのです。そうした対策が奏功し、1979年にはようやく住宅事業部が業績不振を脱します。

社会や時代との摺り合わせのなかで、飯塚五郎蔵が手がけたプレハブ住宅は次第に変化していき、最後は高級化と在来工法へ寄せていくことになりました。飯塚もまた住宅産業が直面するそうした変化にあの手この手で対応していき、「三井ハウス」を社会へ定着させるに至ったのです。

それこそ冒頭に引用した『主婦と生活』のプレハブ住宅特集には、「三井Uハウス」含め次のようなプレハブ住宅が「これからのあなたの住まい」として紹介されていました。

セキスイハウスB型(積水ハウス、約26坪)
ダイワハウスA型(大和ハウス工業、約17.5坪)
日本電建エコン住宅(日本電建プレハブ部、約26坪)
八幡エコン住宅(八幡エコンスチール、約16坪)
日商ハウス(日商ハウス、約26坪)
三井集成材ハウス(三井木材工業、約19坪)
永大ハウス(永大産業、約13坪)
白金ハウス(白金工業、約10坪)
ラクダハウス(ラクダ産業、約3坪)
不二ミゼット(不二ハウス、約3坪)

積水ハウス、大和ハウス工業は今でも大手ハウスメーカーとして健在ですが、その他のプレハブ住宅はもはや存在しないか、住宅事業から撤退しています。

「三井集成材住宅」改め「三井Uハウス」で住宅産業界にデビューした三井木材工業も、2001年に窯業系サイディング部門をニチハに救済合併されるに至り、同年、注文住宅事業を三井物産ハウステクノに営業譲渡しました。ただ、状況は好転せず、2006年に同社は住宅事業からの撤退を決断します。「これからのあなたの住まい」の厳しい現実。

いわば死屍累々の上に現在のプレハブ住宅は存在しているのです。

冒頭、『主婦と生活』の特集記事内の写真を見て、「えっ!何これ?!」と驚いたわけですが、それはプレハブ住宅の産業振興期に生まれたものだからこその夢ある力強い提案と、フツーのプレハブ住宅イメージが定まった現在から見たときの違和感のカップリングなのでした。

「新しい時代のプレハブ住宅とはいかなるものか?」という問いへの解答が未だ定まっていなかった時代。そんな頃に試行錯誤された数多の住宅の一つとして、この「三井Uハウス」は位置づけられます。

最後に「住宅の素材と複合化・部品化」と題した飯塚五郎蔵の小文を紹介して終わりたいと思います。初出は『ハウジング』1970年12月号(ちなみにリクルートから出てるのじゃなくって、ハウジング社が出してた堅い方)。ちょうど在来工法に寄せた「三井ハウスF型」を開発していた頃の文章ということになります。

木目の美しい単板(ツキ板)を表面に貼ったものは、ほとんどムクのものと同じ鑑賞価値と親和性を持っている。中までムクの良材でなくても差支えない。接着剤の進歩は、このような複合材料を見事に開花させた。
それはわれわれの五感をダマしていることになるかもしれないが、文明の進歩は「ダマされる幸福」を教えてくれる。
厚さ1ミリメートルの美しい木目板は、厚さ10センチメートルの材からは理論的には100枚もとれる。かつて大名、貴族を楽しませ、優越感をもたせた薩摩杉やけやきの一枚板は、今や私にも手のとどく値段の範囲内にある。ラジカルな表現を借りれば、まさに木材の民主化である。69年竣工した新宮殿にもこの民主化木材がたくさん使われている。
(飯塚五郎蔵「住宅の素材と複合化・部品化」1970)

「ダマされる幸福」だとか「民主化木材」といった表現から、飯塚の考える「ホンモノ」像が見えてくる気がします。飯塚はさらに大理石とテラゾーに言及し、さらに「プラスチックはその生地のままで本モノである時代がやってくる。いやすでにきている」と評します。

思えば飯塚の建築人生は、敗戦前後の混乱期にスタートしました。戦争によって庶民が直面した悲惨な住宅難を解決すべく「住宅の工場生産化に関する研究」をテーマに選んだ飯塚にとって、「民主化木材」によって安価で良質な住宅を大量に建設することは悲願でした。

さらにカングリー精神を発揮するならば、大学院での飯塚の研究指導に当たったのは十代田三郎。早稲田大学建築科を卒業し、後には同大教授となり、木造建築の防火や防蟻などの研究で活躍した建築家です。その十代田が1944年(=飯塚が大学院に入学する年)、建築学会が主催した設計コンペ「急速建設建築構造」について「戦時建築と創意」と題した小文を寄せています(建築雑誌、1944年1月号)。そこで十代田は言います。

設計に当たり、常に建築科学を根底として、発明工夫の態度で設計毎に一歩でも進歩したものを苦心する習慣が必要であろう。
与えられた条件に対して平面計画、造形、構造、材料共に最も経済的且つ有利な最善のものに努力する習慣が必要であろう。
(中略)
非常時建築の設計に当ては自由経済時代の建築の設計とは全く頭を切り変えて考えなければならない。かつて物資の交流の不便であった旧時代の工法を再吟味して、之に現代科学の知恵と創意を加える事に依て目的を達しられる事も少なくはなかろう。進歩と云うよりは寧ろ改革である。改革には生まな荒削りは免れない。幾多の創意に依る生まな荒削りのものを実際化して製作を重ねる中に立派なものが百に一つでも淘汰さるれば目的は達しられる。
(十代田三郎「戦時建築と創意」1944)

そうか、飯塚は師である十代田三郎の言う「改革」を胸に「実際化」へと邁進したんだな。「建築科学を根底として、発明工夫の態度で設計毎に一歩でも進歩したものを苦心する習慣」を身体化していればこその「三井Uハウス」だったのだろう。

ただ、時代が「戦時建築」的な枠組みを脱した1970年代に入って、三井ハウスは迷走を始めた。時代は〈工業化〉から〈商品化〉へと転じたのです。先に引用した飯塚の「住宅の素材と複合化・部品化」の最後は次のように締めくくられます。

建築の工業化は、とにかく今までの建築のあいまいさから脱却するひとつの機会になりつつある。しかし建築の古きよきロマンは、形を変えて新しいシステムの中に生き続けることだろう。
(飯塚五郎蔵「住宅の素材と複合化・部品化」1970)

建築の商品化は、ふたたび建築のあいまいさを増幅させる機会になり、建築の古きよきロマンは、あいまいさによって増幅され、ただただ差異化の材料として生まれ変わることになったのでは中廊下。そう思えてきます。

マイホーム幻想が解体され、商品化の呪縛から脱しつつある今だからこそ、飯塚五郎蔵が三井木材工業とともに抱いた〈理想〉と、その実現を阻んだ「市場」や「ニーズ」の〈現実〉の【あいだ】を丹念に観察し、そこにあった〈理想〉をバージョンアップする手掛かりをつかみたい。そう思わせるほど、U字形の集成材は当時の「夢」に溢れています(図16)。

図16 三井Uハウスの建設風景


参考文献
三井木材工業『三井木材工業のあゆみ』三井木材工業、1981
松村秀一監修『工業化住宅・考:これからのプレハブ住宅』学芸出版社、1987
飯塚五郎蔵『デザインの具象:材料・構法』エス・ピー・エス出版、1989
松村秀一ほか編『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』彰国社、2013
建築知識編『「奇跡」と呼ばれた日本の名作住宅50』エクスナレッジ、2014
小松幸平『集成材:〈木を超えた木〉開発の建築史』京都大学学術出版会、2016

図版出典
トップ、図5、9~11、13~15:『デザインの具象』1989
図1~3、8:『主婦と生活』1964年4月号、1964
図4、10、16:『建築知識』1963年1月号、1963
図6、7、12:三井ハウス各種チラシ


1)社史『三井木材工業のあゆみ』には「U型集成材によるプレハブ住宅を開発すべく、東大生産研究所池辺陽助教授、横浜国立大飯塚五郎蔵助教授に基本設計を依嘱するとともに、昭和35年(1960)5月、その指導にもとづく研究を開始した」とあって、池辺陽の関与を記している。
2)チラシの価格記載部分は訂正シールが貼られていて、ちょっとお下品ですが透かして見ると、「U15」133万5千円は119万円、「U20」175万円は146万円と見えます。商品名がすでに「三井Uハウス」となっているので、1964年以降に発行されたチラシで、その数年後に価格改定がなされたものと推測されます。
3)積水ハウスの第一作目「セキスイハウスA型」開発時にも、カマボコ兵舎がデザインソースの一つになったことが証言されていて、日本のプレハブ住宅への進駐軍の影響がうかがわれる(松村秀一ほか編『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』彰国社、2013)
4)社史『三井木材工業のあゆみ』の記載内容から抽出。大和ハウス工業の「ミゼットハウス」人気に乗じたのであろう「三井ハウスCタイプ」という3坪タイプの商品もチラシから確認できる。どうやら三井物産の商品であって、三井木材工業は関与していない模様。

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