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構造派のドン?佐野利器を学びほぐす|愛とユーモアと新しいモノ好きと

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図1 佐野利器

このダンディなおじさまの写真は、昭和戦前期に建築界のボスとして君臨した佐野利器(1880-1956)(図1)。「利器」と書いて「としかた」と読みます。

佐野は、東京帝国大学在学中、辰野金吾(1854-1919)が「日本には欧米と異なる困った事がある。地震が之である」と講義で語ったのをきっかけに、「耐震構造で国家社会に尽くそう」と決意した厳つい人物。

辰野が建築の「見た目」を欧化して国家社会に尽くした偉人とすれば、佐野は建築学の「骨組み」や「考え方」の科学化に尽力した人物ともいえます。耐震構造学の確立だけでなく、都市計画や住宅改良、さらにはメートル法やローマ字の啓蒙運動など、多方面で活躍した生涯には圧倒されます。

この佐野の写真も、そうやって見るとなんともゴッドファーザー感が溢れてきます。

構造派のドン?

「存在を無視しては日本の近代建築史が語れない」(村松貞次郎『日本建築家山脈』鹿島出版会、1965)と評される佐野利器。耐震構造学の創始とともに、よく言及されるのは、「形のよし悪しとか色彩の事等は婦女子のする事」といった発言です。さらには「日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき」といった建築非芸術論も有名。

これらの発言もあって、佐野は日本建築界の工学偏重を招いたと指弾され、「構造派」あるいは「構造アカデミズム」の権化として語られもします。たとえば、近現代日本建築史を大胆に記述し、これからの建築創作への見取り図を描き出した藤村龍至の『批判的工学主義の建築』(NTT出版、2014)では佐野は次のように描かれています。

佐野らは西洋モダニズムのように構造と意匠の統合を目指すというよりも、「科学的アプローチ」を掲げてむしろ両者を分離し、意匠に無関心なエンジニア像を作り上げた。一九一〇年代から一九二〇年代にかけての近代主義の黎明期には耐震・耐火、大量生産、都市計画といった社会的なテーマが前景化したこともあり、佐野ら構造エンジニアの発言は強いものとなっていくが、それは関東大震災をきっかけにさらに強いものになり、意匠デザイナーの立場は相対的にどんどん弱まっていく。
(藤村龍至『批判的工学主義の建築』)

帝国日本が建築においても欧米列強と伍していくためには、近代化と科学技術の向上は必須。また、地震国日本で西洋式の建築を建築していくためには耐震化も喫緊課題。

帝国日本の「国家当然の要求」(佐野利器「建築家の覚悟」1911)に答える構造派のドン・佐野利器はブルドーザーのように構造エンジニアを押したて、意匠デザイナーを駆逐していったのでした。

はたしてそうでしょうか。

子ども最優先という「国家当然の要求」

佐野利器について書かれた評論の代表作に長谷川堯(1937-)の「建築家の覚悟の果てに」(1974)があります。長谷川は俳優・長谷川博己の実父。まぁ、いらぬ雑学ですが。

長谷川の佐野利器論は、なぜか冒頭、歌手・雪村いづみから始まり、佐野の著書『住宅論』(文化生活研究会、1925)に書かれた子ども至上主義な主張がもつ意味を考察しています。

たしかに言われてみると、『住宅論』を読んでいくと例えば敷地論の章では、敷地選定のために考えるべきポイントとして「近所に危険物はないか」、「近所に衛生上有害なものはないか」、「排水がよいか」といった一般的な注意喚起が続くなか、最後の項目に「遠くない所に遊園地があるか」が唐突にあらわれます。「公園その他子供の遊び場が余り遠くない所にあるということは誠に望ましきことである」と書いています。

さらに住宅計画論の章では「主要各室」と別に「児童室」の節が設けられています。ここでは例の「我が人生観乃至生活観にして誤りなくんば即我が住宅は正に子供の住宅でなければならぬ」、そして「子供を育てるということは我々の生活の中心であらねばならぬ」、「住宅を以て子供のものである」などなど、子どもへの温かな眼差しをもった住宅論が展開されているのを発見できます。

長谷川は、佐野がそんな子ども至上主義を掲げるのは、日本の未来のためであって、それは「建築家の覚悟」で見せた国家への忠誠、「国家当然の要求」として子ども至上主義があるのだと指摘するのです。

なるほどなるほど、デザイナーを駆逐し、エンジニア的思考で建築を染め上げる佐野の志向からこそ、「即我が住宅は正に子供の住宅でなければならぬ」という主張が出てくるのか。そうすると、一見したところ同じ佐野が書いたとは思えない「建築家の覚悟」と『住宅論』の溝は埋まります。

はたしてそうでしょうか。

色眼鏡をつけかえてみる

たしかに言われてみるとそうかもしれないし、そう思うと何かと近代日本建築の流れがクリアにみえてくるので、佐野利器ってそういう人だよね。ドン・佐野利器おそロシア~、となります。

でも一度ここでスッキリしかけた佐野利器像をあらためて複雑にしてみてはどうだろうか、と思うのです。いわば、これまで学んできた佐野利器像を、あらためて学びほぐしてみる。「佐野利器は構造派のドンだ」という色眼鏡を通して見えた景色を踏まえた上で、あらためて別の色眼鏡をつけてみると、また違った景色、多面的な風景が見えるのでは中廊下、と。

例えば「形のよし悪しとか色彩の事等は婦女子のする事」という婦女子発言も、『佐野博士追想録』(佐野博士追想録編集委員会、1957)を子細に眺めると少し話が違ってきます。それは当時、建築学に科学的理論がないことに失望した佐野が、その理由を説明するくだりにあらわれます。

建築学には何の科学的理論もない事に失望し、自分に不向きな学科を選んだ事を悔やみ、やめようかとさえ思った。小さい時から質実剛健というモットーに育てられ、形のよし悪しとか色彩の事等は婦女子のする事で、男子の口にすべきことではないと思い込んでいた位だからだ。
(佐野利器「述懐」『佐野博士追想録』)

ただ、その後、述懐は次のように続きます。

もっとも2年の半ば頃から段々と形、色彩にも興味を持つようになり、卒業頃は芸術の人生に大切な事をさとるようになった
(佐野利器「述懐」『佐野博士追想録』)

ここまで読んでくると、婦女子発言は佐野の信念ではないどころか、芸術の大切さもしっかり語っていることがわかります。

同じように「日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき」といった建築非芸術論にしても、当時の日本が「正に臥薪嘗胆の時機」だという時代認識を、明治末期にひとりドイツに留学して痛感した佐野が、気負いに気負って気合いを込めて「建築家の覚悟」を語った、なんて思うとまた違った味わいがでてきます。モタモタしてると欧米列強に飲み込まれる。そんな祖国・日本を叱咤激励するには、あえて炎上必至な煽りも使うでしょう。

いずれにせよ、佐野の根っこの部分では、根本的に芸術や趣味の問題を全否定したわけじゃないだろうな、と(むしろ、意匠デザイナーを駆逐したかったんじゃなくって、社会主義思想カブレを駆逐したかったんだろうな)。だとすると「構造合理主義」とか「構造派のドン」みたいなレッテルを佐野が知ったら、どう思うのだろう・・・。

愛とユーモアと新しいモノ好きの人

ステレオタイプじゃない佐野利器の人柄を知るのにも前掲の『佐野博士追想録』が役に立ちます。なんといっても「思い出」コーナーには親族もあれこれと原稿を寄せているので。

たとえば、佐野の合理主義が形をなしたとされる鉄筋コンクリート造の自邸も、実は「子どもたちがグルグル回って遊べるように」つくられたものだったといいます。学生からはなにかと恐れられた佐野ですが、近親者にとっては愛情あふれる人物であったことがわかります(図2)。

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図2 家族と共に(昭和25年)

そういえば、古希を迎えた佐野利器が書いたエッセイ「年寄は子供に返る」(美しい暮しの手帖・第9号、1950.10、暮しの手帖社)。鉄筋コンクリート造の自邸から木造純和風の鎌倉別宅へ移っていた佐野が、エッセイのなかで「生活能率の為には椅子式を可とする主張を持続しつつも、自ら完全に旧慣の虜となツて仕舞ツた」と書いています。

「利便、休養、衛生、経済などを綜合した所謂生活能率の見地から、椅子式がよいにきまツて居る」けれども年寄になると「薬にもならぬが毒にもならぬ子供のときの習慣が、骨身の中から出て来るのは誠に面白く、そして嬉しい感じのものである」と。「建築家の覚悟」から39年。たくさんの子や孫に囲まれて至った境地にホッコリさせられます。

孫の証言にも耳を傾けてみましょう。佐野の孫・武藤久子の思い出話はというと、

母の話によると、着物の柄選びがとてもお好きで母の若い頃はお見立ては殆どおぢい様だったそうです。それで私のお正月用の着物も、おぢい様が選んで下さる事になりました。(中略)おぢい様は可愛い色がお好きです。染め上がって来た時には、とてもお喜びになって、「これは可愛い、きっとよく似合うよ」と、本当にうれしそうでした。
(武藤久子「着物」)

あるいは義子・天沼彦一は、

非常に子供思いのよいおやじとしての印象しか持っておりませんが、その中でもよく食事のあと茶の間でくつろぎ乍らニコニコして時事問題の話をしている様子が強く脳裡に残っています。謡曲は勿論、浪花節も非常に好きでしたが、戦後のシューシャィン・ボーイの歌などが好きだった事も、父の割合知られていない一面を語るものであろうかと思っています。
(天沼彦一「追憶断片」)

もうひとつ、天沼彦一を、

私が父として知るようになってからの印象は、極めて穏やかで、家庭・親族にはもとより、部下・学生に対しても細やかな気配りを惜しまない優しい心をもった人というものでした。(中略)子供たちが皆自転車に乗ってあちらこちらへ出かけるのを見て自分も子供たちの仲間に入って一緒に自転車を乗りまわしたい一心から、齢50をすぎて自転車の猛練習を始め、涙ぐましい努力の甲斐あってようやく乗れるようになった時には、本当に嬉しそうだったそうです。
(天沼彦一「佐野利器・義父のプロフィール」建築雑誌、1998.11)

近親者にみせる佐野の表情はこんなにも豊か。この愛らしい佐野の「子ども重視」を「国家当然の要求」と結びつけるのは、ちょっとカングリー精神が旺盛すぎやしないか、と。

あと、やさしい利器おぢい様の愛情は、子や孫だけでなく犬にも注がれます(図3)。

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図3 犬とたわむれる佐野利器

そのほか、自ら筆をふるった絵葉書もいくつか残していたりするのですが、もっと重要なのは、佐野の業績的にも本人の思い入れ的にも要注目な「建築設計への思い」は相当に強かったものと思われます。

その証拠に『佐野博士追想録』に収録された「述懐」では、多くのページで自身がたずさわった建築設計に関するあれこれが語られています。明治神宮外苑、旧岐阜県庁舎(1924)、神奈川県庁舎(1927)、学士会館(1928)、大和郷(1922)の住宅地開発などなど佐野の関わった建築は多い。

あと、建築学会誌への投稿に「遅飛(ちび)」というペンネームを使うユーモアも持ち合わせていました。これは自身の身長が低いことに因む自虐ネタだそう。「としかた」を「りき」と読み、時には「Ricky」と署名もしたらしい。ローマ字やメートル法の推奨など、佐野は新しいモノへの関心も強く持っていたことがわかります。

そんなこんなで、「佐野利器」像を、彼の愛やユーモアや新しいモノ好き、さらには建築設計へも強い関心を持っていたという前提に立って、構造派のドンじゃない佐野を再構築できるのでは、と思ったりもします。それこそ、そんな色眼鏡で冒頭に紹介したドン・トシカタオーネの写真を見てみると、随分イメージがかわってくるから不思議。

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図4 佐野利器

アンソニーと一緒にトマト畑を駆け巡りそうにみえてきます。というか、そもそも左上にいるネコは何?!(図5)

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図5 佐野利器とネコ

せっかちで即断即決。同時にケンカっぱやかったことでも知られる佐野。背後の黒ネコが「どうなることやら心配だね。決めたらすぐの人だから」とか言ってそうです。

焦らずボチボチと新しい色眼鏡を通して見ることは、スッキリ整理されていたものが、あらためて複雑によく分からなくなってしまうことにもつながります。でも、それはあたらしい発見への第一歩でもあります。あらためて、はじまりの佐野利器へ。

(おわり)

※図版出典:『佐野博士追想録』、佐野博士追想録編集委員会、1957

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