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中納言参りたまひて|藤原隆家はどんな心境で笑ひたまひたんだろうか

高校生の頃、古文の成績は(古文の成績「も」かな)お粗末きわまりないものだったのですが、問題集に載っていた『枕草子』の第百二段「中納言参りたまひて」は、なんだかいろいろと妄想できて、20年経った今でも記憶に残っているエピソードです。

白・中納言参りたまひて

長徳元年(西暦995年)。中納言藤原隆家が中宮定子のもとを訪れ、後日プレゼントしようと思っている扇について、いかにその扇が素晴らしいかを熱く語る場面からはじまります。

「わたしはスバラシイ扇の骨をゲットしました。それに紙を張ってプレゼントしたいのですが、ありきたりな紙を張ってもダメなので、相応の紙を探しているのです」と。中宮さまは「どんな骨なのですか?」と尋ねますが、隆家の答えは要領を得ません。「もうスバラシイもなにも、みんなが『あんな骨、今まで見たことのない!』って言うくらい。こんなスゴイ骨は見たことがないですっ」と。

参上して早々になされる隆家の報告はなんとも可笑しい内容。しかも、話の展開が強引なことを自覚してか、段々と声が大きくなったそうで余計に怪しさが増します。そんな隆家と中宮さまのちぐはぐなやりとりを側で見ていた清少納言が口を開きます。

「それって、扇の骨ではなくって、くらげの骨のようですねぇ。」

ウィットに富んだ清少納言のセリフ。隆家はさぞかしツボだったようで「そのセリフ、この隆家が言ったことにしてしまおう」と笑ったのだそう。「これは隆家が言にしてむ、とて笑ひたまふ」と。

このやりとりが、よりによって後世に不朽の古典となる『枕草子』に記録されてしまうわけですが、言ってみれば、あまり公言すべきでない裏話。しかも、清少納言のお手柄だとわざわざ暴露する話。それゆえ、清少納言としては「書き記すようなことではないのだけれども」と断りつつも、周囲の人たちが「書いちゃえ書いちゃえ」と言うので、しかたがないから書くことにしたのだと言い添えるのです。

なんともほのぼのとした世界。

黒・中納言参りたまひて

でも、隆家の「スバラシイ扇」の話はやっぱり胡散臭い。それと同時に「皆が書けってウルサイからしかたなく書いた」という清少納言の言葉も、隆家に負けないくらいにあやしく感じてきます。

というか、清少納言が発した「それって、扇の骨ではなくって、くらげの骨のようですねぇ」って言い様は、つまりは「そんなもの存在しないんですよね=ウソ言うな」って意味だと思うと、あのほのぼのとした、やんごとなき世界がにわかにドロドロしてきます。

「もうスバラシイもなにも、みんなが『あんな骨、今まで見たことのない!』って言うくらい。こんなスゴイ骨は見たことがないですっ」と声を大にして言う隆家を、清少納言はどんな目でみていたのだろう。イライラMax、一言いわずにはいられなかったのは間違いなさそう。

「それって、扇の骨ではなくって、くらげの骨のようですねぇ。」

中宮さまの歓心を得るために持ち出される「スバラシイ扇」なんてこの世に存在しない。核心を突くその指摘を「くらげの骨」を持ち出して言い当てて見せる清少納言の機知。「さては、扇のにはあらで、海月のななり」という表現もまた美しい。

いきなり脇から刺された態の隆家は、清少納言の言葉をどう受け取ったかは想像するしかありません。うろたえながらも言葉を継いだ「これは隆家が言にしてむ」。また、かろうじてつくった「笑ひたまふ」の表情。これらは隆家が精一杯の平静さを装った結果なのだと思えてきます。それゆえそこでの「笑ひ」はさぞかし引きつっていたのでは中廊下とも思うわけですが。

さらに清少納言の筆はそこで止まらない。「かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、一つな落としそと言へば、いかがはせむ」としめくくるのです。そもそも『枕草子』自体、他人に見せるつもりはなかったのに、源経房が来訪した際、彼に座布団を差し出したら、その上に『枕草子』が載っていて見られてしまった、という訳の分からない言い訳が跋文に書かれているので有名ですし。

さてさて、中宮定子をはさんで、実態のあやしいプレゼント大予告をぶつ隆家と、そんな彼の振る舞いを切れ味鋭い皮肉で斬って捨てる清少納言。カングリー精神が刺激されます。おそるべし「やんごとなき世界」。

中納言隆家のその後

ちょっと気になったので中納言隆家がその後にどうなったのだろうと調べてみたら、なかなかのトラブル続きだったよう。

清少納言に斬って捨てられてから1年後の長徳2年(西暦996年)4月、花山院襲撃事件などの咎で出雲権守に左遷されてしまいます。いわゆる長徳の変。あぁ、結局、中宮さまへの贈り物は実現したんだろうか。たぶんしてないんだろうなぁ。というかやっぱり扇の「骨」もなかったんだろうなぁ。

当時、敵対関係にあった藤原道長からの圧をジワリジワリと感じつつある上での、隆家の中宮訪問&プレゼント予告の「目的」もあれこれ邪推してしまう。そう思うと隆家の「笑ひたまふ」とは一体どんな心境からのものだったのだろう。左遷された翌年には京へ呼び戻されたものの、その後はなにかと不遇だったらしい。

左遷を解かれた後のこと。酒で盛り上がった道長一派が調子にのって「隆家を呼ぼう!」と言いだすエピソードが『大鏡』に収録されています(「道長と隆家」)。

とっくに酔いがまわってる面々のなかへ素面で参上した隆家。「楽にしてよ」と服をくずしにかかる藤原公信に「いくら不遇なオレだからって、お前にそんなことされる身ではない!」とキレるのですが、「まぁまぁ」と道長自ら隆家の服をくずして事なきを得たといいます。場を凍らせていい立場ではないと悟ったのでしょうか。道長になすがままにされる隆家がちょっぴりかわいそうです。

そんな隆家の不遇を知ると、中宮定子を介した反道長同盟として清少納言とは結束すべきなのに、なにやってんだよと思ってしまいますが、実際はどうなのかわかりません。『枕草子』のプロデュースにかかわった源経房の両陣営をまたぐ立ち位置、定子の子をわが子として大切にした彰子や弟・頼通が次代をつくっていったその後の展開を思うと、やんごとなき世界では、今の価値観からするところのドロドロした状況すらも雅なことだったのかもしれないし。

祝うことと呪うことが渾然一体となった世界を今の価値観から推し測るのは危険なことなのでしょう。『枕草子』初稿原稿を世に出したのも、隆家訪問時のやりとりを記録するようにすすめたのも、ともに「自分ではない周囲の人々」だという共通点からしても、流れ流れて巡り巡りて、なるようになっていくのが当時の世界観だったのかなぁ、とも思ったり。

『枕草子』第百二段「中納言参りたまひて」。内情を知るほどに違った世界を見せてくれます。それは、あの「コんガらガっち劇場」に登場する、雨が降っていると思ったらやっぱり違ったと思ったらやっぱり雨が降っていた話を思い出します。自分の見ている世界の外側を常に妄想していたいなぁ、とも思います。

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そんなあーでもないこーでもないに意識が行ってしまうので、一向に古典の文法は頭に入らず、その結果、毎回テストの点数はヒドイことになるのでした。

(おわり)

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