大工道具

大工・職人文化とデザインサイディング貼り・新建材まみれ住宅の密な関係

「その会社の技術力を見極めるポイント、ご存じですか?たとえば、この和室をごらん下さい。この長押という部材がぶつかり合った部分、「留め」といいます。ここがキレイにつくれているかどうかに腕の差が出るんですヨ」的な営業トークがあります。

それは、住宅展示場のモデルハウス案内で、自社の技術力をアピールしつつ、そうなっていない他社のモデルハウスを暗に批判する効果も持つトーク。住宅は「つくられるもの」なので、いかに上手に「つくる」ことができるかは業者選定を促す重要な訴求ポイントになる。そう考えられているからこその営業トークかと思います。

とはいえ、数寄屋建築を普請しようというわけではない、一般庶民のマイホーム新築に際して、長押の留めの上手下手が占める意味合いはどの程度のものなのでしょうか。

住宅営業が紡ぎ出すトークは、経験が浅いお客さまに向けて、高額かつ失敗が許されない家づくりという「決断」を促すのが主目的です。それと同時に、営業トークは原則として体系的な知識に基づかない雑学という性格を持ちます。それゆえ、ある局所的な事柄を、さも全体に関わる話であるかのように語るのが常です。

言い換えるなら、「長押の留め」の良し悪しが「家づくり」全体の成否に直結するものとして語られているということ。それって幻想なわけですが、幻想が「決断」をもたらすほどの力を持つのであれば、幻想とてバカにはできません。というか幻想だからこそ侮ってはいけません。

そんなこんなで、「長押の留め」から家づくりを覗いてみたいと思います。

信仰としての「精度」

建築家であり建築構法学の創始者でもある内田祥哉の著書『現代建築の造られ方』(市ヶ谷出版社、2002)は、住宅産業草創期から大手ハウスメーカーの成長を見守ってきた人物だからこそのハッとする指摘にあふれていて興味が尽きません。その本のなかに次のような文章が登場します。

伝統的木造建築の卓越した仕上げ精度の高さも、際だった特徴です。それは、すべすべした木材表面の肌触りとして表現されますが、継手・仕口のきっちりした隙間のない納まり、建物の歪みに対する、過敏なほどの気遣いにあります。これらは、日本の木材と大工技術に培われたものですが、日本人の鋭敏な感覚は、木造以外の近代建築を見る目にも及んでいます。
(内田祥哉『現代建築の造られ方』2002)

「日本の木材と大工技術」の素晴らしさを語りつつ、その感覚が「近代建築を見る目」にも及ぶのだと。さらに、内田は続けます。

日本の建築業者が、海外の建築を見ると「この程度の精度では、日本の施主の満足は得られない」と一様に言います。これは、日本の発注者の目が、建築の精度については格別に厳しいと感じるからです。それは、現代建築に限らず、明治時代に造られた洋風建築についてもいえることで、「先進国の建築は、精度においても日本の建築よりも高いはずである」と考えて、日本の職人達が仕事をしたからで、その結果、日本の明治建築が、ヨーロッパでもめったに見られないほどの高精度に仕立てられたのでしょう。
(内田祥哉『現代建築の造られ方』2002)

これは何とも興味深い指摘です。興味深いのは、日本の職人達の高度な技術力ではありません。「先進国の建築は、精度においても日本の建築よりも高いはず」という「偏見」に、日本の住文化が透けて見える気がするからです。それはもはや「信仰」の域にすら感じるほど。

大工・職人文化の破壊?

信仰の域にまで達するような「精度」を尊ぶ大工・職人の高度な技術は、戦後になってハウスメーカーを代表とした「金儲けとしての家づくり」によって駆逐された。日本の住文化を破壊した犯人=ハウスメーカー批判の代表的ロジックでもあります。

それを証拠立てるように引き合いに出されるのが、あのベストセラーとなった『地球家族―世界30か国のふつうの暮らし』(TOTO出版、1993)に登場するウキタさん一家の住まいです(図1)。

図1 『地球家族』ウキタさん一家の住まい

建築学者・東樋口護は『地球家族』のウキタさん一家に言及しつつ、その住まいの有り様を皮肉交じりに「高成長様式」と名付けました。

今や、モデルであったはずの欧米の様式とも似ても似つかない新しい様式、地球上今も昔も存在しなかった新しいスタイル、いわば『高成長様式』とでも言うべきものに到達した。
(東樋口護「住宅生産」『日本の住宅:戦後50年』1995)

家の中は膨大な量の家財道具にあふれ、それを納める箱としての住宅は、外壁も開口部も何もかも新建材やアルミといった工場で作られた材料でもって覆われている。かつてはその地域でとれた木や土、そして紙などの自然素材を使って建てられた日本の住宅の面影はそこには見られません。いわば日本の経済成長、住宅生産の近代化の結果を象徴するのがウキタさん一家の住まい。

さて、では、このウキタさん一家の住まいは、大工・職人文化が破壊された結果なのでしょうか。いかにも工務店で建てたっぽいウキタさん一家の住まいが、日本の経済成長、住宅生産の近代化の結果として生まれ落ちたのは、まあ、そうだろうナと。でも、そこに大工・職人文化の破壊ではなく、発展・継承をそこに見出すべきでは中廊下。そう思うのです。

大工・職人文化の抽象化

ウキタさん一家の住まいのどこに大工・職人文化の発展・継承を見出すのか。それを考えるために、もう一度、精度に対する「日本人の鋭敏な感覚」(内田祥哉)を、そして、「長押の留め」のお話しを思い返してみましょう。

どうやら日本人は、「長押の留め」を美しく仕上げるような「卓越した仕上げ精度の高さ」を尊ぶ集団らしい。そして、「先進国の建築は、精度においても日本の建築よりも高いはず」という語りに見られるように、先進国は当然さらに精度が高いという価値観を持つ。

日本でよく発達した伝統的木造建築ですが、「この発達は主として美術的技巧的方面の発達であって、力学的見地からこれを見れば寧ろ幼稚」(森徹『高等建築学・第8巻:木構造』1936)という評価があるように、なによりも美術工芸品的な「精度」が重んじられたのだと言えそうです。

日本の伝統的木造建築が持つ美術工芸品的「精度」は、日本の精神性、日本人特有の精神性という幻想を伴った「日本精神」とも深く結びつくものとして認識されました。そして、実はそうした捉え方は戦後にまで連続しています。「精度」は「まごころ」や「器用さ」、さらには「日本の誇り」などが一連なりのものとして語られるのです。

ちょうど戦後日本社会に住宅産業が登場し始めた頃、家電メーカーは積極的に日本の伝統精神を語るようになったといいます。「日本人は器用さを誇ろう」(松下電器、1961)、「私たち日本人は伝統とか歴史を大切にします。〈匠〉とか〈職人気質〉がいまも生きています」(三洋電機、1965)などなど(伊東章子「戦後日本社会におけるナショナル・アイデンティティの表象と科学技術」2003)。

「卓越した仕上げ精度の高さ」は日本人の気質と密接につながり、それが家電製品の品質をも保証するのだという語り方がそこには見られます。「〈匠〉とか〈職人気質〉」を抽象化すると「高い品質・精度」になるというロジック。大工・職人文化を精神性というフィルターを介して抽象化すると、高精度・高品質になる(図2)。

図2 高精度・高品質な松下電器の商品群

だとすると、高精度・高品質を求めて、品質の安定した新建材やアルミといった工場で作られた材料でもって覆われているウキタさん一家の住まいは「〈匠〉とか〈職人気質〉」の継承として捉えられるのです。

日本精神としての「精度」

さて、あっちこっち話がいきましたが、冒頭の「長押の留め」の話に戻りましょう。「長押の留め」の良し悪しが「家づくり」全体の成否に直結するものとして語られる「幻想」。二つを結ぶのは「精神性」、もっと言うと「日本精神」であることが見えてきます。

「精度」に対する「日本人の鋭敏な感覚」は、豊穣な大工・職人文化を育みましたが、その同じ感覚でもって、高精度・高品質な新建材、工業製品にまみれたウキタさん一家の住まいを育んだと思えるのです。反ったり割れたり退色したり腐朽したりする自然素材よりも、工業製品のほうが「日本人の鋭敏な感覚」に馴染むのだと思うと、それは発展・継承なのだと気づくのです。

この「精度」を求める動機は「より良いものとはより精度の高いものである」という図式。これって既に目的と手段が転倒しているわけで、これを徹底すればするほど、どんどん住むことの快適性は等閑視されていくはずです。というか、実際、手段と目的が転倒した「高精度」を誇る住まいを選ぶしかないような状況に置かれているようにも思えます。

「日本人の鋭敏な感覚」が「精度」を求める。それゆえ、作り手・売り手は「精度」の高さを誇ることが、お客さまに対する最大のサービスだと信じる。ゆえに「精度」は過剰となり、その過剰さにコストは延々と費やされていくようになる。そして、ますます住宅はわたしたちにとって割に合わないものになっていく。

(おわり)

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