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現代建築の日本的性格|〈創造的代用〉としての新興木構造【3】

戦時中、建物に鉄が使えないので大空間を木でつくることになった「新興木構造」(図1)。これまで2回にわたって書いてきましたが、これで完結。今回は、「新興木構造」は、木構造研究の進展だけでなく、日本精神と科学技術の関係を刷新したのでは中廊下、的なお話し。

図1 新興木構造

戦時下にあって、各種建築資材の配給が開始。鉄筋は竹で、カーテンレールは段ボールで作られたいわゆる「代用建材」が続々とあらわれるなか、川本鈞一は「創造物資と意匠」(『建築雑誌』1942.12)にて、代用物資を「創造物資」と言い換えたことを、以前も紹介しました。

かかる課題の山積は建築意匠の立場からすれば、決して条件束縛や制約ではなく、むしろ創意と創造への直接の火花ともなるべき契機なのです。徒らに萎縮したり、ひるんだりしている時ではありません。創造物資へ常に最善の意匠をプランしてゆく事と建築の意匠に合一させるべく、たゆまざる情熱を注ぎ燃やすことが、現代に生きる建築技術者の責務ではないでしょうか。
(川本鈞一「創造物資と意匠」1942.12)

「創意と創造への火花となるべき契機」であり「新しい様式の樹立」をもたらす。危機もまた好機へと転用されるなか、「新興木構造」もまた「創造的代用」として新たな意味を背負ったのでした。

木造建築へのダメ出し

さて、「新興木構造」が誕生した経緯(その1)や、そこで模索された木構造のカッコ付きの「科学化」(その2)についてご紹介しましたが、今回は、そんな「新興木構造」の語られ方について注目してみたいと思います。

「新興木構造」についての語られ方には、総じて日本の木造建築に対するダメ出しが見られます。

たとえば、『建築雑誌』1939年5月号に掲載された「資料:新興木構造の話」は、木子清忠、竹山謙三郎、森徹、武藤清、浅野六郎、長沼重、天野一正ら当時第一線の木構造研究者が分担執筆したもの。勃興しつつある新興木構造に関する包括的資料を提供しています(図2)。

図2 新興木構造の話

そこでは、木構造は「耐火、腐朽の点」で欠点があることを認めるものの、「尚且経済的なること、工作施工の容易なること、構造用材としての自重の小なることなど極めて有利な特質を有する」ことから、「力学的理論」に依拠した「材料本質の科学的研究」と「接合法の研究考案」によりこれを補うべきだと主張しています。

「新興木構造」の出自を「従来の経験的な木構造法に科学的検討を加えた新たに構造理論を導入して産まれたもの」として、戦時下において「我々は木構造の合理的把握-新興木構造に対してその先例を学ぶと共に、更に進んで之が研究に努力せねばならぬ」と述べています。

堀口甚吉は、建築構造関連の著作を多く出版した人物。戦後は主に鉄骨造に関する著作を残しました。『新興木構造学』(図3)の緒言では「本書は『新興木構造学』と題してあるが、あるいは『力学的木構造学』あるいは『科学的木構造学』と称してもよい」と述べて、「経験的、伝統的、口授的」な技術からの脱却を志向しています。

図3 新興木構造学

これまでの日本の木造建築が「経験的、伝統的、口授的」で、力学や科学の裏付けがない事をダメ出しする点で、これら論者は共通しています。とはいえ、日本の木造建築にもいいところはある。それは何かと言うと「美術的技巧的方面」からの評価です。

木構造は古来わが国において極めてよく発達した建築構造ではあるが、この発達は主として美術的技巧的方面の発達であって、力学的見地からこれを見ればむしろ幼稚であった。その多くは習慣、経験、目の子に基礎を置いたものである。
(森徹『高等建築学・第8巻:木構造』1936)

そんな「美術的技巧的方面」。意味が拡大解釈され、日本の美を称える語られ方へと展開していくのです。

新興木構造の日本精神

新興木構造を含む木構造全般を特集した『新建築』(1938.7、木構造特集)は、図版頁を「木造の意匠/木材及び木構造/構造力学編」の三部構成とし、神社や仏教建築、茶室、書院、数寄屋、民家、さらには将来の木造建築への展望が、多くの写真図版により紹介されています(図4)。

図4 新建築 木構造特集と新形式木構造特集

ペラペラめくって眺めるだけでも、当時「木造」が置かれた文脈がおおよそ把握できる内容。そこでは、木構造について以下のように語られています。ちょっと長いですが引用します。

我が国は自然的環境によって豊富な良材に恵まれ、我々の祖先は建築の用材をほとんど例外なしに木材に求めてきた。従って我が国民ほど木材を愛し、これを活用し、かつ天才的技術によって、美しい建築を産んだ国民はほかに例を求めることはできない。それほど木材はわが国民の生活には不可欠のものであり、今なおこの伝統的観念は我々の脳裏から離れるべくもない。

さらに、日本国民の独自性へと話は展開します。

しかも他民族におけるごとく建築用材の歴史的変遷を経過することなく、ひとり我が国民のみが、自然発生的な木造に局蹐して、かつこれを発展せしめ、しばしば大陸文化の洗礼を受けながらも、なお木造に執着して一貫したことは驚くべき事実であって、単に唯物的観点よりのみ説明し得られない事実であろう。

さらには、深く精神性のお話しへとつながっていきます。

我々の祖先は霊を祭る社には「生」ある木材を清浄なるものとし、石または土を「死」して不浄なるものと考えて忌み嫌ったとのことである。ここにも我が国民の木材への愛着がよく表れているものと思う。しかもこの伝統的精神は今日に至るまで不変であり、将来とも永久のものであろう。従って神社の様式は(中略)変遷してきているが、その用材はあくまで木材であり、しかも素木造の簡素な形式が尊ばれている。

このあと、延々とおんなじ調子で日本における木造建築の変遷が続きますが以下略。そこに通底するのは、「木造建築への心構え」だと説く。そんな文章は最後の段落で話は木造建築の「科学化」に及ぶのです。

以上で我が国における木造建築の歴史的概観を止め、現代ないしは将来の木造建築に対する要望として考えるべきことは、習慣的な従来の木造技術に対し、厳正なる科学的批判の眼を向くべきであろう。(中略)木材も従来の本質的な欠点に鑑み、「母材」に対してははるかに幾多の利点をもつ「新生材料」として更生することが望ましい。かくして木造の新しい技術への出発が約束されることと思われる。

やむをえず代用をキメたはずの「新興木構造」ですが、戦時下の日本に登場するにあたって、木造が日本国民独自の「伝統的精神」を担うものであることが念押しされ、そこに「科学的批判」を加えることの重要性が語られるのです。消極的な動機で発した「新興木構造」は、伝統と科学の統合を目指すという「積極的動機」へと転用されていることが観察できて興味深い。

科学技術の日本的性格

戦争は科学戦の様相を呈し、その遂行のために「科学技術」の力が不可欠であることが痛感されていました。でも、外来思想・外来文化である「科学技術」は、特に国粋主義者たちからは悪しき物質文明のものとして糾弾される対象。でも「科学技術」は必要。さあどうする。

ここでアクロバティックな論理展開が打ち出されます。それは日本精神が科学技術に加われば鬼に金棒というもの。あるいは、物質文明による科学技術を日本精神によって善導するというもの。

道徳力において高度の発達を遂げている大和民族が西洋の科学文明を自由に使いこなすということができれば、これは鬼に金棒で、ここに理想の文化の動きと言うようなものができてくるのであります。
(松村すすむ「日本科学論」1941.1)

それは当時、科学者や技術者たちが「科学技術の日本的性格」と名付けて本気で模索したものです。

当然に「新興木構造」も、同盟国とはいえドイツからの外来思想・外来文化によって生み出されたものでした。その技術を「使わざるをえない」という消極的な理由は、外来技術である新形式の木構造を日本精神が息づく木造建築と合体させることで「新しい様式の樹立」(川本鈞一)へと至るのだという積極的な理由に転用される。

この「科学技術の日本的性格」なる語られ方は、「「科学技術立国」だとか「電子立国」など、「戦後における科学技術にまつわる言説のいわば雛形を形作っていった」と言われます(伊東章子「戦後日本社会におけるナショナル・アイデンティティの表象と科学技術」2003)。

日本は敗戦の痛手から立ち直り、かつては粗悪品を意味した「日本製」が「メイド・イン・ジャパン」としてブランド化し、1970年代末には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として世界に認められていく過程で、その尖兵となった日本家電も、「日本の誇り」や「心」「器用さ」といった精神性・道徳性が「日本的性格」の証と見なされたのです。

そうやって思うと、1960年代に流行した家具調家電が「嵯峨」「霧ヶ峰」といった和風名称で呼ばれた頃に、大和ハウス工業の「白鳳」「春日」を筆頭に、プレハブ住宅の和風名称も流行したことを思うと、「鉄がないから木で代用」とは逆の「鉄骨プレハブでつくってるけど木造住宅を演じる」みたいな捻れた「創造的代用」も観察できるのでは中廊下。そう思います。現代建築の日本的性格とでもいうような。

(おわり)

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