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銃後の『建築設計資料集成』|未曾有の時局と娯楽場の射的コーナー

建築を設計するにあたっては、いろいろと調べたり考えたりラジバンダリしなきゃいけないことが多々あります。そんなとき、いちいち方々に情報を当たっていると大変なので、建築設計で必要となる基本的な資料・情報をまとめておこう。そんな主旨でつくられたのが『建築設計資料集成』です(図1)。

図1 建築設計資料集成(丸善)

最新版はA4判・全14巻で構成されていて、セット価格19マソ円します。そんな『建築設計資料集成』は一体いつできたのかといいますと、ズバリ、約70年以上前、戦時中のことです。

昭和の初期に開始されて以来、現在にいたる建築設計資料集成の編纂事業は、じつに多数の会員と事務局の協力のもとになった壮大な獨面テーション活動であった。(中略)先人たちの努力はここに大きく結実し、会員のみならずわが国建築界の大いなる資産となっている。
(日本建築学会『日本建築学会百年史』1990)

『建築設計資料集成』の出版へ向けた委員会が発足したのが、日中戦争勃発、いわゆる「盧溝橋事件」の1937年。ようやく1冊目『建築設計資料集成Ⅰ』が刊行されたのが1942年5月5日、地井武男が生まれた日、太平洋戦争勃発の翌年になります(図2)。

図2 建築設計資料集成Ⅰ

いわば、戦争の時代に生まれ落ちた『建築設計資料集成Ⅰ』をパラパラめくっていると、当時の雰囲気がなんとなく伝わってきて、いろいろと味わい深いものがあります。そんな『建築設計資料集成はじめて物語』の旅に赴いてみましょう。

建築界は未曾有の時局にアリ!

建築学会(現・日本建築学会)では、それまでにも『建築工学ポケットブック』を刊行し、その名の通り、建築工学全般について要項を網羅していたのですが、その内容は百科全書的で、それとは別に「建築設計に必要となる基本情報を収集した資料の必要性」が高まってきたと。それゆえの『建築設計資料集成』だという位置づけ。

ちなみに、『建築設計資料集成Ⅰ』としてまとめられる内容は、当初、建築学会の学会誌『建築雑誌』の各号に掲載され、それらを加筆・修正しつつ全3集に集大成したのが「第1期」と呼ばれる『建築設計資料集成』で、戦後の復興期まで重用されたそう。

そのあたりの経緯は、学会史等の資料をコンパクトにまとめた、青井哲人「『建築アーカイブス:第10回・建築設計資料集成』」(2002.10)がわかりやすいです。

それによりますと、そもそも『建築設計資料集成』の企画自体が、設計実務系の会員を学会につなぎとめる学会誌改革の一環だったそう。裏返せば、設計実務者にとって学術色の強い学会誌が何ら魅力を持たなくなっていた。それは「学術」の地位衰退とも関連しつつの動き。

建築学会では、この企画推進のために、ナチス政権下のドイツにおいて刊行されたエルンスト・ノイフェルト(Ernst Neufert)による『建築設計教本(Bauentwurfslehre)』(1936)を参考にします。ノイフェルトはバウハウスの教授で、主に建築設計教育に携わった人物。『建築設計資料集成』をつくるべきだという発想が、バウハウス教育を源泉とするのも、なんとも興味深い。

建築学会は中村傳治委員長を筆頭とする建築設計資料集成委員会のもと、ノイフェルトによる『建築設計教本』を参考にして、順次、『建築雑誌』へ設計データを掲載していき、とりあえず、1942年に『建築設計資料集成Ⅰ』の刊行にこぎ着けます。

中村委員長による序文は「今や我建築界は未曾有の時局に直面し建築家として益繁劇多端の秋である。多数の参考文献を歩猟している時間すら許されない」といった調子で、対米戦争開戦直後の空気を感じさせる煽りが書き記されていて、戦時下の空気を感じることができるのです。

『建築設計資料集成Ⅰ』を読む

1942年、ようやく第一集となる『建築設計資料集成Ⅰ』が刊行されました。目次は次の通りです。

製図方法
形象の性質
人体および動作寸法

法規
暖房
住宅
飲食店
娯楽場
運動競技場
工場
停車場
郵便局
銀行

なんだか不思議な目次構成ですが、『建築雑誌』に掲載された資料を随時とりまとめていったような経緯もあるのでしょうか。ちなみに、敗戦後すぐ『建築設計資料集成Ⅰ』の改訂版が出されますが、変更点は「法規」に収められた「防空建築Ⅰ~Ⅵ」が削除されたくらいです。要は、戦時と平時の差がそれくらいしかなかった。

おや?と思うのは、掲載されている事例に結構なほのぼの感があること。それこそ、「娯楽場」なる章では、囲碁や将棋を差してたり、射的や癇癪玉投げ、メリーゴーランドなどなど、いろいろなゲームが掲載。あれあれ、戦争中じゃなかったでしたっけ?と不思議に思えてくる内容になっています(図3~5)。

図3 娯楽場の図版(のぞき他)

図4 娯楽場の図版(射的類)

図5 娯楽場の図版(遊具類)

「未曾有の時局」と「娯楽場の射的コーナー」が同居する『建築設計資料集成Ⅰ』。この不思議な同居状態にこそ、戦時下の建築学を知るためのヒントがあるのでは中廊下、と思うのです。

銃後の消費生活

この違和感の出所は、わたしたちがなんとなく抱いている戦時イメージからくるようです。朝ドラで出てくるような英語禁止や国防婦人会的な状況も当然あったわけですが、敗戦前の数年間をのぞくと、日本はいたって明るく好景気でした。ただし、あくまで内地=国内では、という条件付きで。

このあたりの事情は、井上寿一『日中戦争下の日本』(講談社、2007)が詳しいです。

日中戦争の拡大で軍事費も増大するものの、国民経済の規模は拡大。日本経済は戦争景気で潤っていたのです。その余波で雇用状況も改善、世界恐慌からいち早く脱却した日本は、むしろ世界の覇権を狙う意気込みさえ持ち得ていたのでした。

国家による戦時統制が景気拡大をもたらし、国民生活をも好転させる。軍需産業の好景気は民生部門にも波及し、デパートも出店ラッシュ。

建築設計資料集成委員会が設けられた1937年の歳末、デパートでは「戦時体制下の歳末」、店員は「全員総動員」で「最高売り上げ突破」を目指す。そんな状況を新聞も報じていました。つまりは、日中戦争下、1年半後にはノモンハン事件へと突入するというのに、銃後では「戦争」をネタとして消費していたのでした。「銃後は戦争にかこつけて、消費生活を享受していた」(井上寿一)のでした。

そして、次第に戦時色が強まっていく過程でも、国民たちはむしろ自発的に戦争協力に邁進していったといいます。それは「軍部によるマインドコントロール」みたいなおとぎ話ではなく、よりよい社会を目指して自発的に協力したのでした。それゆえ、1940年に発足する大政翼賛会は「『ファシズム』体制というより、むしろ『デモクラシー』体制だった」のです。

そんな戦時デモクラシー下の消費生活をつたえてくれるのが「娯楽場」のページなんだな、と思うと腑に落ちます。

地位向上への掛け金

戦争は必要なものとそうでないものを峻別します。「生産性」による仕分けがなされる。

戦争は、この意味で、正しいものと正しくないものとを率直に篩い分け、国家の前進にとって役に立つものと役に立たないものとを仮借なく区別した。これは平時の経済社会の到底なし得ない、ただ戦争という巨大な出来事のみがなし得たことである。合理的なものが貫徹する――それは筆者が感激を以って戦争から学んだ尊い教訓であった。
(大河内一男『社会政策の基本問題(増訂版)』1944)

そしてまた、この「生産性」に価値を置くことで、これまで冷や飯を食わされていた人たちも、各々の地位向上を目指して自発的に戦争協力の道を歩んでいく。

日中戦争下の国民が、一方的な被害者意識を持つことはなかった。労働者は資本家に対して、農民は地主に対して、女性は男性に対して、子どもは大人に対して、それぞれが戦争を通して自立性を獲得することに掛け金を置いたからである。国民は、被害者である前に、ましてや加害者意識を持つこともなく、戦争に協力することで、政治的、経済的、社会的地位の上昇をめざした
(井上寿一『日中戦争下の日本』、2007)

戦時統制に掛け金を置くことで地位の上昇を目指す。それは、生産力理論を掲げて国民生活の最低基準を死守しようとした大河内一男(1905-1984)や、住宅計画学の探求を通して、よりよい国民生活の実現を目論んだ西山夘三(1911-1994)、さらには、『建築設計資料集成』の策定を通して「建築計画学の創成」を目指した中村傳治委員長はじめ、委員会メンバーらの試みも同様でしょう。

「建築計画学の創成」へ向け、戦時統制に掛け金を置く挙措は、吉武泰水(1916-2003)らによる『新建築』誌に寄せたいくつかの文章ににじみ出ています。たとえば、『新建築』1941年1月号には「建築新体制・理念より組織へ」と題した論考を田口正生、尚明とともに投稿されました。

「有機的国家体制」の確立へむけた心構えから組織の在り方までを述べ、「大政翼賛への声、建築新体制への一試案」を掲げる彼らの思索は、まさに戦争(というか技術や生産性の向上が圧倒的に「必要」な状況)を機会に、建築計画学の体系を構築し、社会を変革していこうという熱意とロマンと使命感に彩られていたのでした。

そんな思いのもと積み上げられた研究蓄積という恩恵の上に、戦後の復興、それへ向けた建築設計、そしてもたらされた私たちの生活があったことも忘れてはいけません。難しい時代状況のなかで懸命に築かれた蓄積の上に。

熱い思い(と思惑)のこもった『建築設計資料集成Ⅰ』は、あくまで弾丸飛び交う地獄の戦場ではなく、娯楽場の射的場に隣り合う銃後から夢見たものでした。この戦場と銃後の関係はさらに戦後復興、高度成長期へも連続していきます。

(おわり)

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