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木造建築の語られ方|昭和期日本の精神史 はじめに&目次

noteのマガジン「木造建築の語られ方」ほかに書き散らしていた文章たちを再編成して目次化してみました。佐野利器にはじまり三澤千代治におわる木造建築のお話しを書くという目標に向かってスケッチしてみた架空書籍の目次とその前書きになります。

はじめに 木造・昭和・語られ方

たとえば、十数年ほどの前の住宅雑誌のページを開いてみると、今と比べて茶色や緑色の割合があまりに少ないことに驚きます。かつては無彩色でまとめられがちだった建築も、今では木質感にあふれています。それこそ、『住宅特集』(新建築社)と『チルチンびと』(風土社)の距離はここ数年の間に随分と縮まったのではないでしょうか。

実際、いま木造建築に熱い眼差しが注がれています。都市の木質化や大規模木造、木質建築の隆盛、「木」をモチーフにする建築家・隈研吾の活躍、さらには伝統構法の再評価から世界遺産登録へ向けた活動などなど。

一方で、木造住宅の在り方を大きく変容させる省エネ法改正や、ZEH(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)に代表される住宅の総合家電化といった動きに対する木造住宅陣営からの懸念も聞かれます。今や、木造建築の話題には事欠きません。

かと思うと、建築専門誌『新建築』の2018年11月に掲載された月評では、その前月に刊行された木造特集号について、建築学者・深尾精一が次のようにコメントしています。

木造の隆盛は近年の顕著な傾向で、きわめて充実した内容である。しかし、評者は、「木造」という時代は終わるであろうと考えている。

木造特集号への月評が「『木造』という時代は終わる」との言葉で始まるのに衝撃を受けますが、以下、次のように続きます。

「木造」とは、「鉄筋コンクリート造」と同様に、20世紀に始まった概念であり、そのような構造分類自体が無意味になってきていると思うのである。
ハイブリッドの時代と言えば簡単であるが、その用語も、20世紀的なものであろう。19世紀までの組積造の小屋組は、ほとんどの場合、木材による架構であったし、床構法も多くの場合、木材で構築されていた.
日本にも、19世紀半ばまでは、「木造」という用語はなかったはずである。それが今、「木造にすること」が目的化しているのではないだろうか。

「木造」が20世紀に始まった概念であり、また、「木造」という時代は終わると言う。そして、日本も19世紀半ばまで「木造」という用語はなかったという深尾氏の指摘は傾聴に値します。「木造」の20世紀を経て、いま改めて「木造」が注目されている。しかも、「木造」という時代が終わるその前に。

さて、そんな時代だからこそ、本書は、そもそも木造建築がどのように語られてきたのか探ってみることにします。ここであえて昭和期に限定するのは、切りが良いからというズバリの理由は脇に置くとして、日本人が木造建築を意識的に語りはじめたのがおおよそ昭和に入ってから、1920年代であり、また、木造否定の時代を経て改めて木造建築が表舞台に帰ってきたのが昭和の終わりである1980年代だからという理由ゆえです。

しかも本書では、木造建築の「造られ方」ではなく「語られ方」に注目したいと思います(ちなみに本書タイトルは内田祥哉『現代建築の造られ方』(市ヶ谷出版社、2002)のもじりです)。

戦前・戦時・戦後と激動した昭和期、つまりは1926(昭和元)年から1989(昭和64)年にかけて現れた、木造建築を巡る特徴的テーマを取り上げ、そこにみられる「語られ方」の諸類型を読解してみる試み。変転しつづける社会に馴染ませるべく紡がれた「木造建築の語られ方」をいまいちど棚卸してみることで見えてくるものがあるはずです。

どうして「語られ方」なのか。それは、木造建築の大きな特徴として、とにかく日本人は木造建築に対して饒舌であり、しかも、そこには数多のロマンとファンタジーがまとわりついてきたという来歴があるゆえです。実際のところ、木造建築と一口に言ってもピンからキリまでいろいろありますが、むしろ、その多様性にこそ魅力と魔力があるのかもしれません。

それこそ、先に言及した『新建築』2018年11月号には、都市計画・まちづくりの研究者・饗庭伸による月評も掲載されているのですが、そこで饗庭が指摘する木造建築の特徴がなんとも興味深いものになっています。

法とか制度とかつまらない理屈をこねるのではなく「日本人だから木だよね」「和の精神だよね」のような大雑把な感覚に身を委ねる快感は、お祭りの時に見知らぬ人と掛け声をかけながら連帯感で結ばれている時の快感に似ています。

木造建築が持つ、というか木造建築がまとう「大雑把」さを軽妙に指摘してみせるのです。

木造特集なのに鉄骨造がたくさんあって、それでも木造だと言い切ってしまうほどの大雑把さ。世界中から木を買い付けているのに、和だと言い切ってしまうほどの大雑把さ。無垢でも集成材でもCLTでも木の手触りがあると言い切ってしまうほどの大雑把さ。まったくオーセンティックでない歴史的景観の再生の大雑把さ。「見たことがない木の組み方」を見せ合っているような無邪気さ。

もはや褒めているのか貶しているのか分からない。それこそ、木造建築が持つ「祭り」のような気分の高揚と、それゆえ許される「大雑把さ」だという饗庭の指摘は、実は深尾精一の指摘と同じことを別の表現(というか異なるテンション)で指摘しているのかもしれません。

とはいえ、ことほど左様に、木造建築について語られるとき、部分的には当てはまるけれども全体的にみればそうともいえない説明や、根拠のあやしい都市伝説的なエピソード、比喩や連想を介した情報操作などなどが「大雑把」にみられるのも事実。

改めて木造建築が注目されるいま、木造建築を巡るロマンやファンタジーの物語をとりあえず封じた上で、そこに見出される価値や可能性について考えてみる。そのための語彙を紡ぐ作業として本書は位置づけられます。

さて、前置きが長くなりましたが、さっそく、昭和期日本における木造建築の語られ方を辿る旅に出たいと思います。

目次

はじめに あいまいな日本の「木造」

第1章  木造愛国 vs.木造亡国 1930年代の語られ方

1 木造建築の倫理と日本主義の精神
2 原始時代から原子時代へ!
3 木造愛国・木造亡国の現在形

第2章  木造建築を動員せよ 1940年代の語られ方

1 思考実験としての国民住宅
2 創造的代用というレトリック
3 金色の野に降り立つ者

第3章  明るい農村住宅の嫁と姑 1950年代の語られ方

1 木造禁止の模範解答
2 新しい家相のモダニズム
3 そして姑になる

第4章  日曜大工デモクラシー 1960~70年代の語られ方

1 民主主義実践としての日曜大工
2 ツーバイフォーがやって来た
3 素人の玄人化/玄人の素人化

第5章  ジャパン・アズ・ナンバーワン 1970年代の語られ方

1 明るい未来の住宅産業
2 鉄骨愛国=逆説の木造愛国
3 現代「建築の日本」的性格

第6章  木造建築の再発見 1980年代の語られ方

1 暗黒の長いトンネルを抜けると
2 復権と排撃
3 木造建築の語られ方

おわりに 「語られ方」の開かれ方

あとがき

Column
(1)家屋耐震構造論と規格統一
(2)『徒然草』と『陰翳礼讃』
(3)欲望の建築新体制
(4)ダンチ族と『私は二歳』
(5)民主主義実践としての家相読本
(6)さあ、コンサルティングハウジング
(7)東日本ハウスの木造ナショナリズム
(8)RC造建築の語られ方

写真:「三万八千円の家」アサヒグラフ(1950年8月23日号)朝日新聞社

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