セキスイハイムM1パンフ2

屋根なんて飾りです|大野勝彦・セキスイハイムとM1の「あいだ」

「足はついていない」と心配する大佐に整備兵が言った「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」というセリフは、発言の主旨に反して、新技術が受容されるときに「飾り」が必要となることを再認識させてくれます。

「従来のモビルスーツが持つイメージとのギャップが受け入れがたい」という上層部と、その見解の不合理性を嘆く技術者という対立図式はあるある感がハンパありません。両者のギャップを埋めるため、やむをえず「飾り」である足を付ける予定になっていたのだけれども、悪化する戦局はそれを許さず、結果として整備兵的には正しい「足はついていない」状態での出陣となります。

新技術は「技術的に可能である」だけでは社会に実現しない。それはちょうど、電気自動車がガソリン車と同じ形状である必要はないにもかかわらず、あえて似たような形にしているのと同じ構図です。

建築史に残るセキスイハイムM1

1970年、第1回東京国際グッドリビングショーが東京晴海で開催されました。住宅メーカーや建設会社各社が腕を競いあってモデルハウスを建設するなか、積水化学工業の区画は基礎工事だけで放置状態。開催までに間に合うのか?と皆が不安になるなか、トラックにつまれたユニットが積み上げられ、あっという間に住宅が完成。周囲を驚かせました。

そのモデルハウスが、積水化学工業と建築家・大野勝彦が共同開発のもとつくりあげた「セキスイハイム」。後に「セキスイハイムM1」と改称される工業化住宅です(図1)。

図1 セキスイハイムM1

翌年の1971年2月、神田司町に初の展示場をつくって販売開始。住宅ブームのなか来場者、そして成約も好調なスタートを切り、3年後には累積受注1万棟を突破することになります。

この「セキスイハイムM1」は販売当初、「ルームユニット工法」と名付け販売されます。いわゆる軽量鉄骨ボックスラーメンユニット工法と呼ばれるこの住宅工法は、軽量鉄骨の柱梁を箱型に溶接したラーメン構造のユニットをあらかじめ自社工場で製造し、それをトラックに載せて現地に運びます。現地では組み立てるだけ(図2)。

図2 M1の組立作業

内外装がほぼほぼ工場で仕上げられて現場に持ち込まれるため、販売当初のパンフレットでも「工場生産比率じつに95%、日本で初めてのルームユニット工法です」と謳われています。おいおい一般向けにそのアピールかよと思うのですが、でもそれが大きなアピールポイントだったのは事実。

また、住宅を構成する1ユニットのサイズは道路交通法で認められる運搬可能な最大サイズできまっています。住宅のサイズが人体寸法ではなくって自動車の問題から決まっているのはなんとも興味深いものがあります。

さて、そんな「セキスイハイムM1」、建築界では何人かの有名人が住んだことでも知られています。そのうちの一人が建築史家・建築家の藤森照信。藤森は建築史家として「セキスイハイムM1」を次のように評価しています。

プレモスから大野勝彦の〈セキスイハイムM1〉までが、歴史家が取り組むに足る日本のプレファブ史にほかならない。プレモスからハイムM1の間には、ミサワホーム、セキスイハウスなどなど、住宅メーカー各社のさまざまなプレファブ住宅があり、今も続いているのだが、それらは日本のその時々の現実をただ反映した産物にすぎず、歴史家の思考を刺激するような過剰も欠落もない。
(藤森照信「セキスイハイムM1」1995)

また、建築家の宇野求も次のように「セキスイハイムM1」を紹介しています。

セキスイハイムM1は、1960年代に工業化住宅を追求した建築家たちの提示した構想を集約し、それらをもっとも純粋に図式的に建築化したプレハブ住宅システムであった。建築の生産に着目して新しい建築の開発に取り組んだ建築家たちのなかで、大野勝彦はその基本設計とシステム開発を担当した。住宅建築の近代化という課題に対してもっとも独創的で徹底的な解に達し、一式の建築システムとして提出することに成功した建築家となったのである。
(宇野求「プロダクツとしての住宅」1997)

藤森によって、歴史家が取り組むに足りるプレファブ住宅と評される「セキスイハイムM1」。宇野の言葉からは、それを理解するためには、建築家・大野勝彦、そして、「システム」について少しばかり説明が必要なようです。

大野勝彦、住宅システムへのロマン

建築家・大野勝彦が積水化学工業との共同開発に取りかかった当時、彼はまだ東京大学の大学院生でした。積水化学工業の社史には次のように書かれています。

当社では、住宅関連設備ユニット化の権威である東京大学の内田祥哉教授の研究室に協力を仰いでいた。この研究室に、まだ大学院に在籍中の大野勝彦(現大野建築アトリエ所長、工学博士)という青年がいた。この大野青年から「部屋の部品を互換性のあるものにして、家をつくろう」という提言があった。つまり、住宅製作を完全に工業化しようというのである。
(積水化学工業『参拾年の歩み』1977)

建築現場では組み立てるだけ。現場職人の数は少なくなり、工期も大幅短縮される。当時、問題視されていた大工・職人不足、住宅価格高騰といった諸問題を一気に解決するアイデア。そう積水化学工業には受け取られたはずです。でも、大野自身のロマンはさらにその先にありました。

セキスイハイムM1の開発にあたって提案したのは、1/2ルームサイズのユニットを車のラインのように工場生産する方式で、これには、ユニット同士のジョイント部を除き、設備や仕上げを極力工場でアセンブリーできるメリットがあります。このユニットの組み合わせによって、あらゆる平面や面積にも対応できる、というデザインシステムが特徴です。
(大野勝彦「ストック型ハウジングの考え方」2000)

このユニットとなる箱のことを、大野は「無目的な箱」と呼びます。このユニットはロッジ、別荘、住宅、アパート、事務所、店舗、集会所などなど何にでもなる「ただの箱」(藤森照信)として構想されました。この箱に対して、時間の経過のなかであれこれ部品が付け加えられ、取り替えられていく。そんな仕組みを大野は夢想したのでした。そのコンセプトを宇野は次のように説明します。

セキスイハイムM1とはそれまでの建築のように個別のものとしての建築に与えられた名称ではなく、自動車や電気製品のように工業製品化されたシステムに与えられた名称である。つまりモダニズムが指向した工業社会における「普遍的な」建築のあり方をきわめて純粋にモデル的に体現している建築なのである。
(宇野求「プロダクツとしての住宅」1997)

実際、1976年に出版された大野勝彦の著書『現代民家と住環境体』を読むと、彼が一戸建て住宅に関心をもっていたわけではないことが分かります。「安定成長による都市化社会」としての「住環境社会」「コミュニティ社会」という時代認識のもと、有機的に「住環境システム」をつくりあげていきたい。その一つの解が大野の提示する「無目的な箱」だったのです。

また、そんな「住環境システム」を担う住宅のプロトタイプを、大野は「現代民家」と表現しているのも興味深いものがあります。ヴァナキュラーなものが注目されていた当時、大野が夢想する「システム」にもまた、ヴァナキュラーなイメージが宿っていたのです。

「民家」とは、日本における大衆としての農民の生活のシステムと生産のシステムとの段階的発展のプロセスを、住宅という形をもったプロトタイプのあらわれとして評価される。その意味で今日においてはもちろん、未来においても重要な発想用語であり、また建築をとらえるときのシステム用語としても、プロトタイプとしての単位として使われるべきだと考えている。
(大野勝彦『現代民家と住環境体』1976)

「セキスイハイム」の挫折

さて、その後「セキスイハイムM1」は大野勝彦のロマンを実現することができたのでしょうか。答えは残念ながらノー。では、どうなったのでしょうか。大野自身つぎのように語っています。

実際に販売される段階になると、出来上がった状態のイメージなしに購買意欲を刺激することはできませんし、また当時は標準的な家族のための戸建て住宅が大量に求められた時代だったということもあり、いわゆる「商品住宅」としての側面に特化していくことになります。さらに、その後の商品開発の過程では、「オプション」という名の下に膨大な部品がこのユニットに組み込まれていくようになります。これでは「住宅」としてのまとまりを持ちすぎてしまい、どうにも手を加えることが難しくなってしまいます
(大野勝彦「ストック型ハウジングの考え方」2000)

販売をてがける住宅営業マン、そして購入者のニーズといった住宅販売の現場は、大野の抱いたロマンを無情にも済し崩しにしていったのです。

販売当初「セキスイハイム」と名付けられた「システム」は、市場ニーズを反映させた新商品「セキスイハイムM2」(1974)と区別するために「M1」と名付けられます。それは「M2」と区別するためというよりも、大野が夢想した「システム」が「商品住宅」に変質してしまったがったゆえの改名だったのでは中廊下、と思います。

さらに、1978年には販売開始以来7年間モデルチェンジされなかった「セキスイハイムM1」の改良版「セキスイハイムMR」が登場。屋根面の改良のほか、設備、妻壁の性能が向上しました。(『ユニット住宅の世界』1990)。

積水化学工業が「セキスイハイムM1」を世に出す10年前、同じく積水化学工業(後に分社化)によって開発・販売されたプレハブ住宅が「セキスイハウス」(1961、後の「セキスイハウスA型」)でした。

プレハブ住宅史上、エポックとなる住宅ながらこれは売れなかったことでも知られます。その失敗を受けてか、「セキスイハイムM1」はマーケティングにも工夫を凝らしました。

ふたたび藤森照信に登場願うと、「セキスイハイムM1」はマーケティングを徹底し、メディアにも積極対応したことから積極的に電波に乗ったといいます。「建築家+マーケティング+メディア、この三者を組み合わせたプレファブ住宅は、それまでひとつもなかった」と大野が語ったといいます(藤森「トラックに乗ってやって来たわが家「セキスイハイムM1」」1998)。

にもかかわらず、いや、だからこそ「M1」は売れて、「セキスイハイム」=大野のロマンは挫折したのです。戦後、「持ち家」を手にすることができるようになった庶民にとって、大野が「セキスイハイム」に込めた可能性は伝わりづらいものだったのです。実際、「M1」の売りにくさを解消すべく「M2」が大野とは距離を置いたかたちで開発され、次いで「M2」の改良版「M3」がその後の積水化学工業を支えるモデルとなっていきます。

たぶん、購入を決意した層の多くは「未来的なデザイン」、つまりは「商品」としての「セキスイハイム」に魅力を感じたのだと思われます。大阪万博の年に颯爽と登場した「セキスイハイム」は大野の意図とは別のところでウケた面も大いにあるのかと。

「出来上がった状態のイメージなしに購買意欲は刺激できない」。そのへん、スティーブ・ジョブスは分かっていて「多くの場合、人は形にして見せて貰うまで自分は何が欲しいのかわからないものだ」と言ったのでしょう。こんなにもできるし、あんなにもなっちゃうし、そんな世界ってスバラシイよね!という「システム」のお話は、実は一部の層にしか伝わらない性質のものなのだから。

屋根なんて飾りです

そういえば、藤森照信も建築学者・本多昭一に「一番安くて、しかもしっかりした住宅を紹介してくれ」とお願いしたら「大野さんが開発したハイムがベストだ」と紹介され購入に至ったといいます。

他の購入者も「手頃な値段」が決め手になったことを数多く証言しています。「一番安くて、しかもしっかりした住宅」は工業化住宅に対する最大の褒め言葉。「セキスイハイムM1」はその職責を全うしたといえるでしょう。

そんな割り切りを象徴するのが「セキスイハイムM1」の陸屋根。「屋根はついていない」というその特徴は、藤森もお気に入りだったのか、隣家の子どもとの落語ネタみたいな話をよく紹介しています。

それからひと月ほどして、隣の大谷石の塀の家のガキが、「おじさん、この家いつになったら完成するの?」と聞く、もうできたよと説明すると、「まだ屋根ができてないじゃない」。あのとき、塀でも壊しときゃよかった。この家はナ、銀行支店長の家と違って、元々屋根のようなゼイタクなものはついていないんだ。コノヤロ。
(藤森「トラックに乗ってやって来たわが家「セキスイハイムM1」」1998)

その後、「セキスイハイム」シリーズは、素人目には違いがよく分からないくらい続々と後継モデル、新モデルを発売していきます。

「ハイムM2」(1974-79年)
「ハイムM3」(1975-79年)
「ハイムMR」(ハイムM1の改良版、1978-80年)
「ハイムM3 New」(1976-81年)
「ハイムMR New」(1980-83年)
「ハイムM3 '81」(1981-82年)
「ハイムスカイワード3階建」(1981-95年)
「ハイムNEW M3」(1982-83年)
「ハイムグロワール」(1982-91年)
「ハイムアバンテ」(1983-85年)
「ハイムM3パルフェ」(1983-85年)

ちょっとずつリニューアルされ、もはや車のようにモデルチェンジされる商品としての住宅は「みんな同じじゃないですか」な様相を呈します(図3)。

図3 全部同じじゃないですか

そんな変質の過程で、庇は伸び、オプションも増大していきます。そして、1983年、「ハイムアバンテ」の登場でついに禁断の果実を手にするのです(図4)。これまで、庇は出しても屋根は平らを守ってきたセキスイハイムが勾配屋根に手を出したのです。

図4 ハイムアバンテ

「一番安くて、しかもしっかりした住宅」だけでは購買意欲を刺激できない。オイルショック以降、そんな時代になっていました。「企画住宅」と呼ばれる特徴あるウリを押し出す住宅が市場を制する時代になっていったのです(その発端となったのが「ミサワホームO型」です)。

売れるためには「勾配屋根」という家らしさが必要だった。分かりやすい「差異」をもたせないと、住宅事業が成立しない状況下にありました。庶民の住宅イメージから外れすぎず、でも同時に違いも込めるという匙加減が住宅開発の主戦場になっていたのです。勾配屋根の「ハイムアバンテ」を見た大野も、あの整備兵のようにきっと言いたかったに違いありません。「屋根なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」と。

もし、戦況が悪化しなければジオングにも足がついたといいます。だとすると、大野勝彦が抱くような「システム」の夢は、「偉い人」に躊躇の暇を与えない「戦争」でも起きないと実現しない性質のものなのかもしれません。あるいは、一戸建て住宅への考え方が変化せざるを得ないような状況に至るか。とはいえ、いまだ「戦争」もない日本にあって、その後の大野の主戦場は工務店連携へと移っていくのでした。

さて、それから時代が巡り巡って、「住宅双六」が崩壊し「規格住宅」が見直される低成長時代に入って久しくあります。規格住宅や可変性への構えが変化してきた今、大野が構想した工業化住宅の可能性を見直し、あらためて「セキスイハイム」と「M1」の〈あいだ〉について考える時期に来ているようにも思えます。

(おわり)

追補
「セキスイハイムM1」に住んだ建築畑の人々として、本文中に触れた藤森照信に加えて、建築家・富田玲子さん、都市計画家・林泰義さん、料理研究家・林のり子さんたち一家の「林・富田邸」もよく知られています。

参考文献
1)宇野求「プロダクツとしての住宅」、モダニズムジャパン研究会『再読・日本のモダン・アーキテクチャー』、鹿島出版会、1997
2)大野勝彦『現代民家と住環境体』、鹿島出版会、1976
3)大野勝彦「ストック型ハウジングの考え方」、『JKKハウジング大学校講義録〈1〉』、小学館スクウェア、2000
4)藤森照信「セキスイハイムM1」、布野修司編『日本の住宅戦後50年―21世紀へ 変わるものと変わらないものを検証する』、彰国社、1995
5)藤森照信「トラックに乗ってやって来たわが家「セキスイハイムM1」」、『家をつくることは快楽である』、王国社、1998
6)藤森照信「セキスイハイムM1を回顧する」、『タンポポ・ハウスのできるまで』、朝日新聞社、1999
7)松村秀一『ひらかれる建築:「民主化」の作法』、筑摩書房、2016
8)積水化学工業『参拾年の歩み』、積水化学工業、1977

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