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後藤一雄とたどる「日本の木造建築はどのように質低下してきたのか」

1979年、日本建築学会大会で開催されたパネルディスカッション「木造のデザインと構造安全性」に登壇した、当時、名城大学教授だった後藤一雄(1913-1996)は「建築家への警告」と題した発表を行いました。

戦時から戦後にかけて東京工業大学を拠点に木構造やコンクリート・プレハブによる量産住宅の研究に従事してきた後藤は、当然に木造建築についても一家言あるわけで、冒頭から手厳しい指摘をぶちかまします。

木構造、特に住宅は永い伝統の上に現在まできており、その構造については伝統の継承者である大工にまかせっ放しで現在に至っている。しかし木造建築の日本における歴史は質の低下の歴史であり、この結果後世においては専ら災害の元凶となってしまった。
(後藤一雄「建築家への警告」1979)

さらには、大正頃からの金物の導入も上手くいかず、「建築界はあきらめて、専ら鉄骨、鉄筋コンクリートに走り、すべての事がおろそかとなり、後進のままに放置されている」と嘆きます。トドメに、設計者たちは大工まかせで無知なんだから、木構造から手を引くか、勉強し直せと叱咤する。

後藤一雄が厳しく言い放つ「質の低下の歴史」、そして「建築家」への警告にすこし耳を傾けてみたいと思います。

後藤一雄の警告

日本建築学会大会でのパネルディスカッションは、横浜国立大教授・飯塚五郎蔵(1921-1993)の司会のもと、「住宅を主とする木造のデザインと構造法は多様化しているが、建築家の木構造に関する知識は必ずしもこれに対応していない」という危機感のもと開催に至ったもの。当日のパネラーとお題は次のとおり。

主旨説明(飯塚五郎蔵)
日本の木構造の源流を考える(広瀬鎌二)
補強金物の使用について(小林盛太)
建築家への警告(後藤一雄)

開催主旨からして、後藤一雄の叱咤は当会のメインディッシュでもあったのでしょう。ただ、それは、木構造のことを愛するがゆえの叱咤だったことが、彼の言葉にはにじみ出ています。

木造建築には独特の良さがあり、日本の戸建住宅の新築の大部分を占めている。また建築設計者も、この風潮にさからわず、しかし木構造の無知から大工まかせで平気で木造の家を建てている。しかも伝統的形態ではなく新デザインのアクロバットをやるからなお始末が悪い。恐るべき事である。
(後藤一雄「建築家への警告」1979)

「木造建築には独特の良さがある」から「恐るべき事である」へ至る筆致は、段々と怒りがこみ上げる空気がヒシヒシと伝わってくる気がしますが、それはカングリー精神旺盛すぎでしょうか。

後藤が「建築家への警告」で言っている「木造建築の日本における歴史は質の低下の歴史」であるという指摘は、とりあえずは、建築設計者が大工にまかせ&でも、アクロバットがやり玉にあがってるわけですが、「歴史」と言うからにはもっと遡るのは間違いありません。

じゃあ、「そもそも木造建築や大工の「質の低下の歴史」ってどういうことなのよ」ということで、たまたま、手元にあった3つの本に沿って見てみたいと思います。

渡辺保忠の史観

まずは、渡辺保忠『工業化への道・No.1』(不二サッシ、1963)。副題は「工業化への道の中で職人はどう変化して来たか」です。目次は次のとおり。

古代建築における〈人間の手〉の質と組織
中世建築における技術の向上と生産組織と建築表現
近世にみる職人の変遷と技術の普及と建築表現
近代の建築生産における〈人間の手〉の諸問題

わずか20頁ほどの小冊子ながら中身は充実。出だしから飛ばしていて、「法隆寺金堂も、それを解体して個々の部材としてみるとき、そこに加えられている木工技術は、原始末期の登呂遺跡のなかで確認されている木工技術から、それほど飛躍発達したものではない」と来る。

建築技術と生産組織の対応関係、さらにはその関係が変化する契機などを古代から近代までコンパクトに辿る内容は、「質の低下の歴史」を考える上で、いろいろと参考になります。たとえば「大工」がそもそも何を指すのかも、時代によって大きく変化してきました。

たとえば中世。

中世においては、建築に結集される各職種の労働力を統括し支配するような、古代の大工にあたるものが消滅したことも、大きな変化の1つであった。(中略)建築を設計し、かつその主体をなす工事にあたるかっての大工は、番匠大工と呼ばれるようになった。(中略)番匠大工の設計意欲は、各職種技術の統合よりも、大工仕事を増大させる方向にそそがれた。
(渡辺保忠「工業化への道No.1」1961)

次いで、近世。

これまで特権的な大工職家に従属させられてきた工人たちは、その血縁の拘束から解放され、実力を自由に発揮する機会が与えられた。近世初頭における城郭や城下町の建設で見られた、爆発的な建築生産力の上昇は、このような労働組織内部での変革を基盤としたものであった。
(渡辺保忠「工業化への道No.1」1961)

そして近代。

今日、大工技術の衰退が言われる直接の動機は、伝統技術の維持とその労働力再生産の方法としてとられてきた徒弟制度が、戦後社会の変革によって根底からくつがえされたためである。義務教育年限の延長と労働法規の制定によって、徒弟教育が、従来よりも遅れた年令で開始されなければならなくなったことは、大工技能を肉体のかたまるのと平行して身につけさせるという基本の条件を奪ったことであった。
(渡辺保忠「工業化への道No.1」1961)

そして、渡辺は「民衆の生活に密着した建築需要が消化され、満たされてきたのは、建築職人のいたましい犠牲をふまえてであった。そしてこのような一部の人間の犠牲のうえに、他の幸福が築かれる生産関係は、早晩崩壊せざるを得ないであろうし、また近代社会の倫理として、一日も早く克服されねばならない」と語っています。

内藤昌の悲嘆

ところで、建築史家・内藤昌(1932-2012)は、著書『近世大工の系譜』(ぺりかん社、1981)のなかで、近世大工の華々しい働きぶりを語るように見せて、実はいかにして「棟梁の時代」が終焉し、大工技術の質低下が進んだのかを説いています。

江戸幕府体制下の建設事業は1650年頃を過ぎて一応終了。その後の安定期には大火でもないと大きな事業にありつけなくなります。新築よりも修理保全の仕事がメインになったのです。しかも、台所事情を反映して「建築生産の過程を可能なかぎり合理化して、経費の節約を計る」ことが幕府の方針にさだめられていくのです。その結果、ニュータイプの業者が台頭しました。

戦国時代以来の家柄と技術的伝統を誇る作事方の古いタイプに代わって、入札によって決定した請負制度のなかで最大限の効率を発揮する才をもった新しいタイプの棟梁が台頭してきたのである。
(内藤昌『近世大工の系譜』1981)

かつては、建築家と施工業者を兼ねた「大いなるタクミ(技術者)」だった「大工」職能も、江戸時代末期から下降していくと指摘。その原因に幕府の経費節減、作事方棟梁の没落や小普請方棟梁の登場があったというのです。さらに書籍メディアの登場も変化に拍車をかける。

いままでの大工技術は、父子相伝とか親方が弟子に秘伝にするとかいう少数のエリートの保有するものでしかなかったが、やがてその技術が木版本として公刊され、それを手にすれば一応誰でもが一人前の大工になりえた。(中略)内容も従来の木割を主体とした規矩術・絵様・儀式・家相・番匠縁起に加えて、仕口・建具・欄間・雑具等の雛形が出現し、大衆化されてくる。やがてはまったく職人化した大工が仕事を取るときの簡単な要領までも記したいわゆる「往来もの」までも出版される。
(内藤昌『近世大工の系譜』1981)

こうして時代の必然のなかで近世大工の栄華も終焉を迎えた。そう内藤は嘆くのでした。

村松貞次郎の指摘

木造建築現場の中心的存在である大工。その大工の技術が変化していった要因を、建築史家・村松貞次郎は『日本近代建築技術史』(彰国社、1976)で指摘しています。「大工の技術」と題した章で、明治後半におきた大工・職人文化の崩壊について語ってくれます。

まずは、明治政府により、職業選択の自由が認められ、封建的な身分制約関係が廃止されていったことに注目します。「封建的ではあるが、また、その技術と営業とを防衛する唯一の法的根拠が失われた」のだと。その結果、「勃興する商業資本や請負業の参加に再編入されて、単なる技能労務者に転身する契機がつくられた」のだと。

新たに登場した請負資本家は大工出身もいたものの、多くは建築を知らない人たちが「山師的経営」を行ったといいます。これは「元来仕事を愛し、拙劣な仕事をすることを何よりも恥とする職人気質を、強制的に破壊していった」と言うのです。

農村から出てきた次男、三男たちが続々と大工になり、気質が変化していくなか、徒弟を育てる気風もまた当たり前ではなくなっていったといいます。さらには文明開化で続々と移入されてくる新技術も、古くからの大工の気質を破壊する要因となります。

自らの腕を誇り、その仕事に打ち込む代わりに、職人気質で気むずかしく世話のやける大工は、尊敬はされても、一般の人々の工事には使い切れなくなった。それより、材木屋へ行って手ごろの材料を買いそろえ、要領よく、適当にハイカラに、短時日で普請してくれる請負仕事の大工が歓迎されるようになった。
(村松貞次郎「大工の技術」1976)

往々にして、わが国の大工技術・文化は戦後、特に高度成長期にプレハブ住宅の普及やオートメーション化、2×4のオープン化等々により破壊された云々と語られがちですが、すでに、近世、さらには明治に入って「質の低下の歴史」はどんどん進展していました。

この変化は、まぁ、ある種の「民主化」の結果なわけで、生産組織、さらにはそれを支える社会構造の変化と一体だったわけです。

こうした指摘は、いつどこでどんな建築が建てられたかについてだけでなく、なぜそれが建てられた(建てることができた)のかを、生産組織、気候風土、生活様式、建築観や倫理観などなどから多面的に捉えることが大切であることを教えてくれます。

そこをスッ飛ばすと一面的な「江戸・職人文化礼讃」になったり、さらには「木造住宅を手がける人が西岡棟梁を称える」みたいな構図も生まれかねません(というか生まれてるか・・・)。

坂本の激励、後藤の決意

ところで、冒頭の後藤一雄とは好対照に、その7年後の1986年、『新建築住宅特集』創刊号には、東京大学教授・坂本功(1943-)の小文「戦い覚悟で木造を」が掲載されています。建築家は勉強し直すか手を引けと凄んだ後藤一雄とは違って、木造建築の未来のためにも、建築家は大工さんや行政と「闘う」くらいの覚悟で木造建築について試行錯誤してほしいという内容。

坂本の指摘はとっても冷静。最近はRC造が増えてきたけど、木造住宅は根強い人気と歴史がある。建築家も構造設計者も不要で、外観や間取りには共通意識がある。大工のノウハウで家が建つ。そこに建築家が割り込むと話がややこしくなるのが常だと。

住宅を木造でという日本人の気持ちはまだまだ根強い。そこで、建築家の方々には、試しに、あるいはもっと多く、木造住宅を設計してほしいとお願いしたい。大工さんとの戦い?を通じて、木造住宅のあるべき姿を探ってほしい。(中略)木造でちょっと変わったことをやろうとすると、今度は行政とぶつかる。この戦い?は、しばしば労多くして得るところが少ないので、賢明な建築家は回避しようとするようである。しかし、構造的問題であれ防火的な制約であれ、それらに挑んでみなければ進歩がない。
(坂本功「戦い覚悟で木造を」1986)

木造右派からは「木造暗黒時代」(もう少し穏健な表現だと「木造建築空白時代」)と呼ばれた時代も終わり、翌1987年からは木造による準耐火構造が認められることになる当時、木造住宅は、こうした激励なくしては進歩の道を歩みづらい状況にあったということでしょう。

その甲斐あってか、現在では「それはべつに木造でやらなくってもいいんじゃないの?」みたいな状況になっていますが(木造ビルはもちろん名古屋城も)。

さて、キレ気味な後藤一雄の叱咤に導かれて、日本の木造建築がどのように質低下してきたのかを巡ってみました。後藤の「質の低下の歴史」説には、注意が必要で、大昔から現在までウンコな質の木造建築は存在したわけで、当然にウンコな建築は残りづらいから、現状残っている木造建築は、古ければ古いほど質は高い。

それゆえ、法隆寺と庶民住宅を同じ木造建築として比較してしまうのは、比較の仕方として乱暴というか不公平かつ非対称。でも、この論法は、木造建築をヨイショする際に頻出するロジックでもあります。後藤もそれを知った上で言っているのでしょう。

ちなみに、後藤一雄は、建築設計から構造研究まで手がけ、わずか36歳で亡くなった建築家・後藤慶二(1883-1919)のご子息であらせられます。父への思いがどんなものだったのか分かりませんが、後藤一雄もまた父と同じように建築設計から構造研究まで手がけ、父が『鉄筋混凝土構造』(白水社、1926)を書いたように、彼はコンクリート・プレハブ住宅の開発に尽力しました。

それと同時に、後藤は戦前から田辺平学(1898-1964)らとともに、木造建築の近代化を目指して研究に打ち込み、戦時中にはあの「新興木構造」に連なる実験・開発に苦心しました。戦後になって伊勢湾台風による木造被害を調査し、60年代前後にも継続して木造建築の研究に注力しつづけたのでした。

「質の低下」を食い止めるべく身を粉にした苦労と、そこでの実績への自負心あってこその「恐るべき事である」発言だったと思うと、キレ気味な発言も俄然重みを増してきます。

(おわり)

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