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〈木造愛国〉と〈木造亡国〉|木造建築をめぐる「語られ方」の諸類型


木造住宅メーカーで働いていたときにつくづく感じたのが「木造建築にはこうも沢山のロマンとファンタジーがまとわりついてるんだなぁ」ということ。

営業マンゆえに、当然「木造建築」の奥深さやすばらしさをアピールする。ただ、営業トークのなかには明らかに過剰な持ち上げも。持ち上げれば持ち上げるほど、実は史的文脈から切り離されたある種のファンタジーになってしまいます。

檜の4寸柱です!匠の技です!といって、その檜柱の上にプラスターボード張ってビニールクロスで巻いたら何だかわからない。あるいは古代と現在では大きくことなる「大工」を同一視してみたり、法隆寺と在来木造を同じカテゴリーで括ったり、あの手この手。。。

それって木造住宅みずからの来歴を隠蔽する=木造住宅の「商品」化を推し進めてしまうんじゃないか。木造住宅の優位性を説くためにプレハブ住宅など仮想敵を攻撃する戦術が、その仮想敵のロジックを引き写すことになってしまうという逆説。

とはいえやっぱり「木造」は良い。そして今後もその活用の工夫が求められていくことは間違いないです。

よりよい木造建築の将来へ向かうためにも、まずは無意識に拠って立つ「木造建築の語られ方」に意識を向けることが大切なんじゃ中廊下と思います。日本人は「木造」をどう語ってきたのか。その棚卸し作業をしてみたいと思います。

木造建築の将来

日本建築協会の機関誌『建築と社会』、1930年7月号は「木造建築の将来」特集号。かつて木造建築しかなかった日本に、木造建築ではない建築物が建つようになった結果、木造建築って何なのか、木造建築の将来はどんなものなのかが、議論に値するものとして浮上してきます。

でも、それはあくまで編集サイドの認識であって、ちょっと可笑しいのだけれども、原稿依頼された多くの執筆者たちは「木造建築の将来」というお題に愚痴を書き留めています。

原稿冒頭で口々に「メチャクチャもやっとしたお題で困惑するわ」とか「忙しいからザックリ所感書くわ」とか「何だよこの卒論テーマみたいなお題は」とか「変なお題与えられたからお前も少し書けと友人に押しつけられた」とかさんざんな言われよう。

それらの愚痴からは「建築」界において木造が占めるポジションがなんとなくうかがわれてきます。

そんな「木造建築の将来」特集号にあって、トップバッター岸田日出刀(1899-1966)は比較的冷静に木造建築の利点・欠点とあるべき将来をまとめています(岸田のニュートラルな木造への視線は十数年後の戦時空襲を受け変化するのだけれども)。

その他の執筆者はというと「木造は重要だし無くならないけど改良は必須だよね」といった主張が多い。そのほか「木造っていっても社寺と住宅と公共施設を混ぜて議論したらアカン」といった冷静な指摘もあったり。もろもろの主張を強引に大別すると3つの路線がみられます。

1〈木造愛国〉

まずは、日本の伝統や精神性にまで遡って木造建築を愛で、そして、日本の素晴らしさを説くスタンス。いわば〈木造愛国〉とでも呼べるような「語られ方」です。

執筆者のひとり松室重光(1873-1937)は、記紀神話まで遡りながら木の国・日本を称え、日本国民の精髄として木造建築を位置づけます。題して「木造礼讃」。

翌年に満州事変(1931)、さらにその6年後に日中開戦(1937)を控える当時の日本にあって、まだそれほど目立たないものの、その後大いに隆盛する〈木造愛国〉の語りを観察できます。

1938年7月には『新建築』でも「木構造特輯」が組まれました(図1)。パリ万博(1937)で建設された巨大な木造装飾塔を表紙に掲げ、木造の意匠、木材及び木構造、構造力学編の3部で構成された一冊。

図1 雑誌『新建築』でいまも続く「木造特集」のご先祖

ここしばらく「国際様式」の紹介に注力してきた『新建築』が、この号では神社や仏教建築、茶室、書院、数寄屋、民家について多くの写真図版とともに紹介しています。

当時、雑誌『国際建築』が「日本建築再検討」特集(1934年1月号)を、『建築世界』が「日本住宅構成」特集(1936.11)、『現代建築』13号(1940年7月)も「利休の建築特輯」を組んでいる。

モダニズム建築に慣れ親しんできた建築家たちにとっても「日本的なるもの」が重要な関心事になっていた状況を踏まえると、なんとも時代を反映した特集たち。8年前、『建築と社会』で多くの執筆者が木造建築を語ることに懐疑的だったことを思うと隔世の感を禁じ得ません。

さて、試しに「木構造特輯」での「語られ方」を見てみましょう。

我が国民程木材を愛し、之を活用し、且天才的技術によつて、美しい建築を産んだ国民は他に例を求める事は出来ない。(中略)我々の祖先は霊を祭る社には〈生〉である木材を清浄なるものとし、石や土は〈死〉して不浄なるものと考え忌み嫌ったとの事である。(中略)この伝統的精神は今日に至るまで普遍であり、将来とも永久のものであろう。

木造建築は、清浄・本質的・自然環境に順応した必然的形態、簡素・素朴などといった倫理性と深く結びつけられます。〈木造愛国〉の語りは、日本の独自性・優位性を、倫理的なものへと接ぎ木するのだけれども、そうした語り方がモダニズムの美学からの引き写しとなってて興味深いです。

ちなみに以前書いた、建築家・隈研吾もある意味、〈木造愛国〉の現在形といえるかもしれません。

2〈木造革新〉

前出の『建築と社会』「木造建築の将来」特集号のなかでいえば、東畑謙三(1902-1998)がその論者としてあげられます。木造建築の弱点を承知した上で、それを科学技術の力でもって改善、革新していこうという、いわば〈木造革新〉ともいえるスタンス。

東畑の論考は、木造トラス、ジベル鋲、合成材などを用いた新しい木造建築の方向性を紹介したもので、ちょうど5年前には日本で初めて竣工した「新興木構造」(陸軍戸山学校雨天体操場、1925)の系譜に連なります(図2)。それは8年後の鉄鋼配給統制規則(1938)以降、大規模建築の花形となる未来が招来することになります。

図2 新興木構造(※1)

木造建築の欠点を科学技術の力で乗り越える〈木造革新〉としての「新興木構造」。それは戦争の長期化に備えて資材統制が進むなか、短小木材をつなげることで、木構造でありながらも格納庫や工場などの大空間を実現する技術でした。そんな「新興木構造」を巡っては、伝統と科学、精神と技術の統合を目指す「語られ方」が観察できて興味深くあります。

たとえば、『建築雑誌』に掲載された「新興木構造の話」(1939.5)では、新興木構造の出自を「従来の経験的な木構造法に科学的検討を加え新たに構造理論を導入して産まれたもの」と紹介し、戦時下において「我々は木構造の合理的把握-新興木構造に対してその先例を学ぶと共に、更に進んで之が研究に努力せねばならぬ」と述べています。

「新興木構造」は雑誌掲載や関連書籍の出版も相次ぎました。戦争の激化は、思想のさらなる右傾化と並行していると思いがちですが、現実は違いました。〈木造革新〉が隆盛していくにつれて〈木造愛国〉は下火になっていくのです。実際、新興木構造を掲載する雑誌には〈木造革新〉を体現する資料・データの掲載ばかりが増えていきました。

その顕著な例が終戦間近の雑誌『建築世界』。「特殊木構造特輯」(1944.4)と題する誌面は、施工写真と図表で埋め尽くされています。なぜ〈木造愛国〉は退潮したのか。それは、もはや戦時下日本の状況は「役に立たない」理屈や講釈に誌面や時間を割いてなどいられない非常事態にあったのでした。

3〈木造亡国〉

さて、3つ目。〈木造愛国〉とは真逆に、木造建築を真っ向から否定する路線も登場します。いわば〈木造亡国〉とでも呼ぶべきその陣営の筆頭格として知られるのが建築学者・田辺平学(1898-1954)。

『建築と社会』「木造建築の将来」特集号においても、大半の執筆者のテンションが低いなか、田辺は語り口の熱さや原稿の長さにおいて他を凌駕する文章を寄稿しています。

田辺は実証主義的・技術主義的な視点から木造建築の長所短所を列挙し、原稿タイトルにもあるように「大工の手より鑿を奪え!」と言い放ちます。なんというか「!」に彼の義憤がうかがえるのではないでしょうか。

ただ、1930年の時点での「木造批判」は、科学なき木造建築を生み出す大工への批判です。そこで田辺は架構方式の科学化、仕様の標準化、徒弟制度の近代化を主張しました。ここで攻撃されているのは大工さん。旧来の「大工の木造」から西洋の科学技術を移入した「エリートの木造」へ(杉山英男)という姿勢が垣間見えます。

田辺のそうした主張は、本土空襲から敗戦を経て、より原理主義的な「木造禁止」へと舵を切ります。たとえば戦後に、その名もズバリ「木造亡国-不燃都市建設の提唱」(1952.7)と題した論考も発表しました。

衣食の近代化を経てもなお、住は未だ「チョンマゲ建築」になっている現状を批判し、「科学ある都市=燃えない都市」の建設を主張する。原子爆弾にも抵抗できる都市が求められる「原子時代」にもかかわらず、日本は依然として木と紙の家で密集都市を造っている。田辺はそれを評して「我が国は原始時代」だと嘆きました。

彼にしてみれば、木造建築に日本精神や倫理性を見出し、記紀神話にまで遡って正統性を語る〈木造愛国〉は、国を愛するどころか、日本を破滅に導く無知蒙昧と見えたでしょう。

そんな田辺が「大工の手より鑿を奪え!」と叫んでより29年たった1959年、日本建築学会はあの伝説の「木造禁止」を含む「建築防災に関する決議」を行うことに。主要都市が焦土と化しても実現しなかった〈木造亡国〉路線は、ここで〈木造愛国〉路線に勝利したのです。

「原子時代」にふさわしい不燃都市実現への王手は、未曾有の大災害・伊勢湾台風(1959)という機を逃しませんでした。ここに「木造建築の暗黒時代」が始まりを告げるのです。

木造「建築の日本」的性格

〈木造愛国〉、そして〈木造革新〉、さらに〈木造亡国〉。3つのスタンスに分けられる「木造建築の語られ方」をみてみました。とはいえ、この3つは完全に別々のものというわけでもありません。

たとえば先に〈木造愛国〉で紹介した一文、「我が国民程木材を愛し、之を活用し、且天才的技術によって、美しい建築を産んだ国民は他に例を求める事は出来ない」という文言は「習慣的な従来の木造技術に対し厳正なる科学的批判の眼を向くべき」と続いており、木造建築の近代化と日本精神の合理化が重ね合わせられているのが分かります。

特に戦時中は〈木造愛国〉〈木造亡国〉の対立は〈木造革新〉へと収斂していきます。そんな呉越同舟な論理展開を可能としたのが、当時流行していた「科学技術の日本的性格」。科学戦を戦う日本は、欧米の堕落した科学技術を、日本民族の道徳性や精神性で克服すると説明しました。テクノ・ナショナリズムの登場です。

科学技術=〈木造亡国〉に立ちながら、伝統精神=〈木造愛国〉を奉る。その「語られ方」は基本的な構図は戦後になっても「科学技術立国」「電子立国」として連続していきました(※2)。

日本は敗戦の痛手から立ち直り、かつては粗悪品を意味した「日本製」が「メイド・イン・ジャパン」としてブランド化。1970年代末には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として世界に認められていきました。

その尖兵となった日本家電も「日本の誇り」や「心」「器用さ」といった精神性・道徳性が「日本的性格」の証と見なされ、1960年代に流行した家具調家電は、大和ハウス工業の「白鳳」「春日」と同様に、「嵯峨」「霧ヶ峰」といった和風名称で呼ばれました(※3)。

ここでも科学技術は、伝統精神に接ぎ木して語られることで受容されたのです。戦前から戦後にかけての木造建築技術の近代化もまた同様に。

プレハブ住宅会社による木造批判=〈木造亡国〉や、それとは逆に木造住宅会社の木造文化礼讃=〈木造愛国〉、さらには伝統構法復権のムーブメントにちらほら見える〈木造皇国〉(?)な語られ方も、まるっと1930年代の「木造建築の将来」に示された構図の引き写しであることがわかります。

こうして木造建築はロマンとファンタジーに彩られる。もちろんロマンとファンタジーが現状を変え、新たな価値を生み出す原動力になるわけで、それはそれでとても大事な創造力。

同時に、ロマンのファンタジーの副作用も知っておきたいところ。副作用は守るべき対象であったはずのそれを内側から突き崩したりします。そして守るべき対象とそうでない対象が等価になっていったりも。

このあたりの話は1980年代にあった木造住宅合理化の動きで顕著になりますが、それはまた別の機会に。

(おわり)


※1  『建築世界』、Vol.38 No.5、建築世界社、1944.4、口絵。
※2 伊東章子「戦後日本社会におけるナショナル・アイデンティティの表象と科学技術-新聞広告を手がかりに-」、『ナショナル・アイデンティティ論の現在』、晃洋書房、2003。
※3 吉見俊哉『視覚都市の地政学:まなざしとしての近代』、岩波書店、 2016。特に第5章「メイド・イン・ジャパン」家電における「和風」の成立、インテリア・住まいにおける「和風」の創出、といった見出しを発見。ジャポニズムと技術主義が「器用さ」という概念で結ばれる世界、などを参照。


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