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使っても無くならない「モノ」

2020年、私にとって最も大きかった変化はプログラミングを始めたことだ。私の大学院での専攻は化学であり、研究でコードを書くことは一切ない。ただなんとなく面白そうと思ったのと正月の浮かれた気分が相まって、無料のプログラミング学習アプリを始めてみた。それが思いのほか自分の性に合っていて、そのまま学習を続け、自分で簡単なアプリを作ってみたり、ベテランの方の手厚いサポートを受けつつチームでの開発を少しだけ手伝わせてもらったりするようになった。結果として大学院を出たあと、専攻している化学とは全く関係のないIT企業に就職することに決めた。

プログラミングの方はまだまだ未熟で、そこで扱う「データ」については文章を書けるほどの知識をまだもっていない。一方、日々触れている「データ」と比較することで、これまで化学の研究で扱ってきた「モノ」については、その特徴が浮き彫りになってきた。

工場で大量生産される「モノ」、すなわち化学製品は身の回りにあふれ、私たちの生活に欠かせないものになっている。ペットボトルや衣服、薬など身の回りをとりまく「モノ」にはほぼ全て化学的な「モノづくり」が関わっている。

それら「モノづくり」の中でも私は薬に関する研究をしている。フラスコの中で化学反応を起こし、「モノ」を変換させていき、薬をつくる研究だ。研究室に入ってからの3年間、ほぼ毎日フラスコを振り、ピペットで色のついた液体を扱ってきた。幼い頃からプラモデルをつくることや、ロボットの変形の仕組みを考えることが大好きで「モノ」に対する憧れを持ち続けていた。この研究はそんな「モノ」と一対一でひたすら向き合える最適な研究だと思いこのテーマを選んだ。

そんな「モノ」の研究をしていた私が、その道から外れ、「データ」を扱うITの世界へ飛び込もうとしている。この決断には「データ」と比較した時に明確化した「モノ」の弱点が大きく影響している。その「モノ」の弱点とは「モノは使うと無くなる」という一見あたりまえの事実だった。「モノ」の持つこの特徴が、化学という学問、さらにはモノづくり産業全体の進展を妨げ、そしてこの分野に関わる組織のもつ人間関係の不快さを生み出していると私は考えている。

研究をしていると、「モノは使うと無くなる」というあたりまえの事実が目の前に立ちはだかる。私はAという材料となる物質を、化学反応によってBという新しい物質に変換する研究を行っていた。この化学反応はまだ前例のない反応で、成功すれば小さな進歩ではあるが論文のあらたな1行になる。このときに私たち研究者が最も時間をかけ、苦労する点はどこか。それはさまざまな薬品の組み合わせを試行錯誤することや、分析機器や分析ソフトを使って実験結果を解析することではない。最も作業として時間をかけているのは、材料Aの”準備”だ。

材料A自体も複数回の化学反応を繰り返してつくることになる。この材料Aのつくり方はすでに他の研究者によって確立され、論文として公開されていて、いちおうは誰でもその方法を真似してつくることができる。一方で材料Aを専門につくっている業者はまず存在せず、材料Aが大量生産されていることはほとんどない。そもそも誰もやらないことをやるのが研究の本質で、必然的にそこで利用される材料Aはニッチなものになるからだ。そのため材料Aは自前で準備しなければならず、場合によっては20回以上の化学反応を繰り返し、半年や一年をかけてたった数ミリグラムをつくることになる。この準備をしている間は他の研究者が確立した方法にしたがって、結果の分かっている単純作業を繰り返すことになり、科学的な進歩は何もない。さらに途中で何らかの要因により失敗する可能性、材料Aの賞味期限(のようなもの)、そして予算などを考慮すると、一気に大量に準備するというわけにはいかず、この準備の作業を毎年のように繰り返さなければならない。実際、私の大学院生活の大半をこの準備の作業が占め、科学的に新しいことをしている、いわゆる「0→1」の研究ができる期間は数ヶ月程度にすぎなかった。

研究というのは一筋縄でいくことはなく、少しずつ試行と改善を重ねて進歩していくものだ。その1回の試行のたびに材料Aという「モノ」は使うと無くなり減っていく。全て使い切ったところでその研究はストップし、またあらためて最初から材料Aの準備を一年かけて始めないといけない。よく「失敗から学べ」という言葉を耳にするが、そもそも準備にかかるコストが大きすぎて、その失敗を気軽に経験できないのだ。そのため研究が進むスピードは遅く、一つのプロジェクトが始まってから論文として世に出るまで5年以上かかることも珍しくない。

「モノは使うと無くなる」という性質は、「モノ」をとりまく人間関係にも影響を及ぼす。材料の準備は他の研究者が確立した方法を繰り返す「必要だが、面倒な単純作業」だ。すると頭をひねって新しいアイデアを出すよりも、辛くて面倒なことを歯を食いしばって頑張る作業がどうしても優先されてしまう。このような状況では、物事を深く考え効率化しようとする人よりも、文句を言わずに我慢して単純作業をこなす歯車のような人が評価されることになる。また、その歯車自身も歯を食いしばって辛い単純作業をこなすことにーーそれが科学的な進歩を生み出していないにも関わらずーー満足感を覚え、自分は優秀であると錯覚してしまう。この歯車の回転数の競争によって、長く働いている者が偉く、この単純作業を我慢できない者は敗北者だという、成果よりもメンバーシップを求める雰囲気が醸成される。

このような思考停止を促し「モノ」の本質と向き合えない雰囲気に私はどうしても馴染めなかった。一方で幼いころから抱いている「モノ」への憧れを完全に捨て、「モノづくり」の世界からきっぱり離れることもできなかった。そんな中でプログラミングを始めて出会った「データ」は、使っても無くならない理想的な「モノ」だった。「モノ」と比較したときの「データ」の特徴は「複製可能であること」にある。「モノ」は使うと無くなるが、「データ」は使っても無くならないのだ。

ある処理を行うコードを書き、それを試しに実行してみる。それがもし失敗したとしてもそのコードは残り続ける。そして何度でもそのコードを修正して試行を繰り返せる。「データ」は一度準備して複製したのものを適切に保管しておけば、失敗しても元通りに戻すことができる。これまで「モノ」を扱ってきた私にとって、「データ」を扱うプログラミングでのトライアンドエラーのハードルの低さは衝撃的だった。

「モノ」に付随する人間関係に苦手意識を持つ一方で、「モノ」に対する憧れを捨てられない。この矛盾を「使っても無くならないモノ」である「データ」を扱うことで解消できないか、「データ」を扱うことで「モノ」の束縛から離れられないか、といまは考えている。おそらくそう簡単な話ではないだろう。仕事として「データ」を扱うと、その弱点がみえてくるかもしれない。ただ、いまは近づきすぎてしまった憧れの「モノ」といったん距離をとり、自分なりの適切な距離感を測っていければと思っている。


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