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「浪花百景」のいまを訪ねる①

鉄眼寺から難波御蔵まで(浪速区編)

■ 中華風の建物が印象的な「鉄眼寺」

 

「鉄眼寺夕景」(芳雪画「浪花百景」より)
現在の鉄眼寺

 豊臣政権が終わって政治の中心が江戸に移っても、大坂は経済の中枢でありつづけた。堂島には米市場が設置され、中之島界隈には全国の大名の蔵屋敷が立ち並び、豪商が生まれて活況を呈していた。
 そんな江戸時代の大坂の姿をいまに伝えるのが、浮世絵の「浪花百景」と「浪華百景幷都名所」の「浪花百景之内」だ。いずれも19世紀半ばから後半の作とされ、浪花百景は歌川國員、中井芳瀧、森芳雪、浪華百景幷都名所は長谷川貞信によって描かれたものである。
 これらの作画と現在のようす、そして訪ねた場所の界隈について、随時紹介していこうと思う。お付き合いのほど、よろしくお願いしたい。
 第1回目は、筆者の事務所がある大阪市浪速区からスタート。
 浪花百景に描かれた「鉄眼寺」は通称で、正式には「慈雲山瑞龍寺」。難波の繁華街からすこし離れた場所に位置し、寺の前には四つ橋筋が通じている。もともと薬師堂だった寺院を1670(寛文10)に鉄眼道光が再興。その際に瑞龍寺と改称したが、俗称として鉄眼寺と呼ばれたという。
 宗派は黄檗宗、本尊は薬師如来。現在の本堂や山門は太平洋戦争の空襲で全焼したあと、1950(昭和25)年に再建されたものだ。

瑞龍寺山門
瑞龍寺本堂

 朱色が鮮やかな中華風で、本堂の前には布袋さんの石像がデンと構えている。

布袋の石像

 取材日が日曜日だったためか門は閉じられていて中に入ることはできなかったが、龍や人魚、カッパのミイラが所蔵されているらしい。一般公開されているのであれば、日を改めて見学してみたい。
 瑞龍寺の周辺は、なんばに近いとはいえ、オフィスビルや戸建て、マンションが建つ比較的静かな場所だ。ちなみに、四つ橋筋をわたってすこし北側はラブホテル街。なお、道路の名称は「四ツ橋」ではなく「四つ橋」。大阪メトロの路線もひらがなだが、駅名は「四ツ橋駅」。したがって「大阪メトロ四つ橋線の四ツ橋駅」となる。ややこしいが誤字ではない。

■ 球場からショッピングモールに生まれ変わった「難波御蔵」

「長町裏遠見難波蔵」(芳瀧画 「浪花百景」より)


「難波御蔵跡」なんばパークス(縦)
「なんばむら御蔵」(貞信画「浪華百景幷都名所・浪花百景之内」より)
「難波御蔵跡」なんばパークス(横)

 鉄眼時の次は「難波御蔵」の跡地に移動。現在はレストランやブティックなど、多くの店舗が入居する「なんばパークス」となっている。鉄眼寺付近と違い、こちらは多くの人でにぎわっている。とくに目につくのは、インバウンドの外国人観光客だ。耳にできるのは日本語よりも外国語が多い、といった状態ではある。
 1732(享保17)年、享保の大飢饉が起きると、幕府は難波村に災害救援用のコメを備蓄する米蔵を設置。「難波御蔵」と呼ばれた。その広大な姿は、大坂の名所の一つとされたのだ。「浪花百景」の図の中に傘が飛んでいるのは、付近に傘職人が多く住み、傘を干す光景が名物だったからだとか。
 明治時代になると御蔵は解体され、跡地に大蔵省専売局による煙草工場が設置される。この大阪地方専売局大阪工場が1945(昭和20)年の空襲で壊滅すると、5年後に南海ホークスの本拠地となる「大阪スタヂアム」(大阪球場)が建設され、1998(平成10)年に解体されたあとに開かれたのがなんばパークスである。
 難波御蔵には物資運搬用の運河「難波入堀川」が開削されたが、こちらは1959(昭和34)年に埋め立てられる。なんばパークスとなんばCITY本館1階の間にある通路わきには、御蔵と運河の跡地であることを示す石碑も建てられている。

「難波御蔵難波新川跡」の石碑


 また、なんばパークスの2階「キャニオンストリート」というオープンエアースペースには、ホームベースとピッチャープレートの記念プレートが埋め込まれている。

なんばパークス2階にあるホームベースの記念プレート

 9階にも「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設けられている。

なんばパークス9階の「南海ホークスメモリアルギャラリー」


 大阪には、「福岡ソフトバンク」となったいまでもホークスの人気は根強い。かつての黄金期を体験している人はなおさらで、記念プレートを懐かしそうに眺めたり、写真に収めたりしている姿もよく見かける。この場所で、鶴岡一人や杉浦忠、野村克也という名選手が活躍していた時代を知る人も少なくなったであろうが。

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