晴耕雨読

1975年5月29日。
大阪の聖バルナバ病院で命を授かった。

自営業の父、大阪は吹田の地主(?)の三女の母のもと、長男として生まれる。父は祖父が創業した文房具屋のせがれだった。母は戦後、堺から未開の地、吹田の千里丘に山林の土地を購入した祖父母の元に生まれた末っ子だった。

父方の祖父がどうして文房具屋になったかは、なんとなくは知っているけど、母方の祖父母がどうして千里丘に土地を買って山林地主にのし上がったかはしらない。ただ私が知っているのは、まだ万博が開かれることも決まっていない頃に、千里丘の土地を購入した祖父母は、天性の強運の持ち主であり、その後の一族のしばしの幸せを紡いだということくらい。そして、母方の祖父母がどういった経営をしていたのかはわからないが、株式会社晴耕園という会社が存在していたことくらいは知っている。

当時私が暮らしていた場所は本当に山であった。小学生の頃の地域の子ども会の夏休みのハザードマップには、「行ってはいけない場所」のところに入っていたのを覚えている。子どもながらに自分の家が「行ってはいけない場所」というのはなんだか心地よく感じなかったのを覚えている。まぁ、大阪人なので、笑い飛ばしてはいたが。

坪数でいうと何千坪だろうか。詳しい大きさはわからない。おそらく母親に聞けばわかるのだろうけど、そんなことはあまり気にしなかった。3階建のマンションに、祖父母、長兄家族、長女家族、次女家族、三女家族の5世帯が同居し、それぞれの家庭が3LDK、80平米くらいの居住区を与えられていた。今考えると恐ろしく恵まれた環境だったと思う。

みなが住んでいたマンションの麓(マンションは丘の上に建っていた)には、今にも崩れ落ちそうな旧家があって、母の家族はもともとそこで暮らしていたそうだ。記憶が確かなら、井戸もあったと思う。何ていうか、物心ついた頃には、その風景は本当にど田舎の風景で、今の時代ではないような気がしていた気がする。

その旧家の前には畑が広がっていて、キャベツにたまねぎ、ねぎにとうもろこしなどなど、いろんな作物を栽培して収穫していたのを記憶している。金柑、びわ、柿、栗、みかん、などなどいろんな樹木も植えてあった。木登りも大好きで、柿の木には本当によく登っていたのを覚えている。木の上でお菓子を食べるのが嬉しくて、まるでトムソーヤのように、木の上に小屋を作ろうと試みたのも記憶にある。庭でカブトムシやクワガタが獲れるなんて、今考えてもすごい経験だったと思う。

そうそう、株式会社晴耕園という名前について、昔、祖母だったか、母だったか、叔母だったかに聞いたことがあって。小学校の低学年の頃だったかな。祖父が「晴耕雨読」という四字熟語が好きで、晴れた日は畑を耕し、雨の日は本を読み知識を耕すという素晴らしい考え方から名付けたと聞いた。その話を聞いてからは、自分自身も「晴耕雨読」という言葉を好きになったのを覚えている。