人間関係維持の双方向性とエネルギー

人間関係って双方向的なもので、かつ、維持しようとエネルギーをかけないとあっという間になくなっちゃうよねって話書こうと思ったんだけど、これって結構当たり前っぽい感触。僕これ気づいた時うわーマジだわー大事なひと大事しないといけないよねって思ったんだけどな。でも書く。


双方向性について。

どちらかだけが相手を求める、欲する状態では、いつかはその関係は途切れてしまう。これには"誘うポイント"が関係する。

誘いたいひとをAさん、誘われている人をBさんとしよう。

このとき、Aさんが誘い、Bさんは予定に空きがあれば会うとする。しかし毎回応えられるわけでもないだろう。そのときBさんが代替案を提示する、すなわちBさんからの誘い直しがあれば関係は継続するだろうが、これがない場合、Aさんは1度断られたにもかかわらずもう一度誘わなければならない。

僕はひとを誘うにはエネルギーを消費すると思っていて、これを誘うポイントと呼んでいる。何度か呼んで来ないひとは、誘うポイントの枯渇によって、誘えなくなってしまうのだ。

これが片方向ではなく双方向である理由。


維持のエネルギーについて。

これは誘うポイントというエネルギーと指す実態としては似たようなものを指す。いくら相互に好き合っていても、それは気にかける、声をかける、同じ時間を過ごすといった「誘いかけ」と何らかの形での「時間の共有」を行わない限り、やはり陳腐化してしまうという点だ。

「何も言わなくたって伝わってるだろう」は伝わってないし、何年ぶりだってすぐにあの頃に戻れるは、あの頃に戻っているだけだ。今のあなたとははじめましてに近いはずだ。

どちらも誘わない関係には、いつしかどちらも誘わなくなり、いつしか死んでしまうんだ。僕の中のあなたが、あなたの中の僕が。

だから好きなひとは誘うんだ、今すぐに。

大事なひととは会うんだ、会いたいうちに。

愛するひとには伝えるんだ、愛してるうちに。

友人もそうだし、いわんや恋人をやだ。同じだぞ、全部。わかったな。


ちょっと脱線する。

ぼくはある時期、「会いたいひとには会いにいく」の熱量が80000キロジュールぐらいあって、とにかく会いにいった。被害(笑)にあったひとは暖かく受け入れてくれて本当にありがとう。

またある時期、面白そう、仲良くなれそうと思ったらとにかく押して仲良くなろうとしていて、これももう本当にしつこかったはずで、警察に通報しないでくれて本当にありがとう。

そうであったからこそ継続できている大事なひとたちがいる。でも、そうでなかったら今はお互いに死んでいたのか?と思うと、僕は何を思えばいいかわからなくなる。

僕の片方向の圧倒的な熱量があったからこそだと、自分の行動を祝うべきなのか。僕の片方向の圧倒的な熱量がなければ死んでいたものだと、悲しむべきなのか。


ぼくはあなたに会いたいし、あなたも僕に会いたいといいし、あなたの中で僕が死なないといいし、僕の中であなたが死なないといいな。

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