文系・理系の甘い罠

最近ダラダラと書けるnoteに甘えてしまっている。ついついこちらに書いてしまう。楽なのかな。浮気性なのかな。ずいぶんブログ書いてないですが、ぼちぼち書きます。

さてさて、あなたは文系ですか。理系ですか。あなたの脳は文系脳ですか、理系脳ですか。

文系・理系という分類は人間を2つに分断するのにとても都合がよいね。

僕は理系を自称してきましたけど、最近それもあやういかなと思っています。

大学の入試科目に対して、自分がどちらの「コース」にいたかで文系・理系が決まると多くの人が思い込んでいるはず。

理系だから「論理的思考ができる」、文系だから「作者の気持ちがわかる」なんて低レベルな話はさすがにしなくとも、数学ができるできないで話したりしますよね。

ちなみに僕は文系でも超頭いい友人を見てから、あるレベル以上になると文系理系って考えそのものがまったく意味をなさないな、という結論に至っているので、その先に特に考えはなかったのですが。

先日、友人に会いに千葉まで行ってきて、文系脳と理系脳の話をしてくれました。彼がいうところによると、理系脳はあるゴールに対して必要な手段がブラックボックスになっていたとして、そのブラックボックスを解明しようとする。文系脳はブラックボックスの仕組みを解明せず、法則性を見出そうとする。現象をマクロ的に見て共通項を見出す、という考え方をする、という話でした。

この境界って結構曖昧かつ文脈次第でどっちにもとれるような危うい定義なような気もしますが、まぁ文系脳理系脳がどうのなんて話はきっといろいろ定義があるだろうからその他のことはどうでもいいんです、彼が独自に理論付けたということが素晴らしいんです。

そして今その両方の思考ができるひとが重要であり、自分はそうでありたいと明確な意図があったので、聞けてよかったなと思いました。

結局ね、「自分理論」をいくら考えつけるかが大事だなと、最近よく思います。そりゃ、昔のひとは気づいていたかもしれないし、たくさん本になったりしてることもあるけど、まだまだ確立されてない分野はたくさんある。別に大きいことじゃなくてもいい。こういうときこうなりがちだなぁ、と考察して検証してやっぱりそうなんよ!と言えることを、いくら持てるか。

それが世界初じゃなくても、よくって、自分しかしてない経験から、自分理論を生み出して、それを自分の言葉で説明する。それができるひとがお金を稼げるんじゃないかと思います。

そして逆に、そういう風に自分理論を本にしたものを読んでも、ヒントしか得られない。それそのものはもう確立されてしまっているから、むしろどうやってその自分理論を確立したのか、その経緯に着目すべきだよね。これが自己啓発本の罠だと思う。

そしてやっぱり、自分理論を作るためには、思考&言語化なので、これからも思考して言語化していこうね。

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