見出し画像

ロボットは私の一部になるのか?

今回は「ロボット」と「ヒト」の関係性について、学術的には纏められていませんが、特に「人称」という視点でなんとなく思っていることを書いてみます。色々とご意見頂けると嬉しいです。

ロボットの語源と労働者

ロボットという言葉は、語源的にみると、1920年のチャペックの戯曲「R.U.R.」の中で使われており、「労働者」というような位置付け。特に、強制労働に近い、大変なことをすることに対して使われています。人の代わりに労働をさせるものを「ロボット」と呼んでいるんです。

そんなロボットが労働者としての役割を加速させたのは、ロボット普及元年と言われる1980年。高度経済成長に陰りが見えた頃ですね。大幅な設備投資削減と人員削減が進む中、投資されたのが「産業用ロボット」でした。技術的にもCPUが実用化されたり、モータが大型化したりとバッチリの状態になる中で、自動車を作るなどの製造業でめちゃくちゃ使われていきます。まさに、効率化のため、大量生産のための「道具」としてひたすら使いこなされていきます。

パートナーとしてのロボット

道具としてのロボットに加えて、パートナーとしてのロボットというのが現れてきます。ドラえもんとかが分かりやすいですかね。困った時に助けてくれたり、話し相手になってくれたり、まさにパートナーとして人と接するロボットです。もしかしたら、ペット型ロボットも近い存在かもしれません。

なぜパートナーロボットが現れたのか、その社会的背景について私は十分理解できていないところもありますが、おそらく高齢化による単身高齢者が増えたとか、共働き増加により子供だけの時間が増えたということが関係しているのではないかと思います。

自分であるためのロボット

そして近年では自分が何かをするために使うロボットが増えているような気がします。一番わかりやすいのは、ロボットスーツでしょうか。もっと言うと、脳などと直接繋いだりするサイボーグ的なものも当てはまるかもしれません。

自分が何かをすることをサポートをするロボット。違う言い方をすると、自分がありたい姿を実現するとロボット。なぜこのようなロボットが増えてきているのか。私の推測になってしまいますが、超高齢化が進む中で、少々身体的な能力が落ちたとしても働かないといけない、もしくは働きたいと思うようになっている。もしくは、多様性が高まる中で個々人の能力特性にバラツキがある中で、自分がありたい姿を実現するために必要な一部分を補助する必要が出てきているんだと思います。これは身体的面だけではなく、精神的、社会的に健康であるというWell-beingという視点で、不足している機能を補うということになります。

ロボットと人称の関係

ここまでロボットの役割やヒトとロボットの関係性について考えてみました。少し纏めてみると、最初は、とにかく労働を代替する「道具」として使われ、その後、パートナーとして人をサポートする存在が現れ、近年では自分が自分のありたい姿でいるために使われ始めています。これを「人称」という観点で整理すると、「道具」というのは第一人称(it)、「パートナー」は第二人称(you/ he/ she)であり、「自分」というのは第一人称(i)、というように、ロボットとヒトの関係が映っていてることがわかります。

図示化したものはこちら(森山和道さんに取材頂いた記事内へのリンク

第一人称としてのロボット

では、本当にロボットを第一人称(自分)として感じることができるのでしょうか。自分ではないものを自分として感じるのは簡単ではありません。この問題に最初に興味を持ったのは、少し前で私が大学院の博士課程に在籍していたときです。博士論文のテーマとして、「末期ガン患者の寝返り支援ロボット」というものを研究していたのですが、患者が寝返りをさせられていると感じるのではなく、あくまでも自分の意志で寝返りをしたと感じるためには、どのようにすれば良いのかということを、考えていました。工学の博士を取得するための研究でしたので、もちろん工学的にアプローチしていたのですが、博士論文の最終章で今後の展望として、以下のようなことを書いています。

使用者が支援システムを気付かないということは,使用者は支援システムを環境の一部としてではなく,自己の一部として捉え,第一人称的に捉えている,もしくは,観察者から見た場合には,第二人称的に捉えられていることになる.ただし,人と機械を含むシステムの境界は非常に曖昧となっており,例えば体内にある人工臓器に対して使用者は第一人称の一部,観察者は第二人称の一部として捉えるが,それらの調子が悪くなると観察者は第二人称のまま位置づけるが,使用者は第三人称として扱うことになるであろう.また,視覚障害者の白杖などは使用者にとっては身体領域を拡大した第一人称であるが,観察者にとっては第三人称であることが多い.

一人称的にモノを捉える事例として、人工心臓や白杖などを取り上げています。その上で、第一人称として捉えるための参考になる先行事例として、メディア研究者や哲学者の思考を引用しています。

M.マクルーハンは「メディア論(1964)」において,身体の物理的な器官を延長させる「爆発(Explosion)」に対して,精神的・感覚器官的延長を促す「内爆発(Inprosion)」の時代が到来することを予見しており,この爆発と内爆発を両立することでウエアラブルな支援システムが第一人称的位置付けになると考えられる.一方,メルロ・ポンティは,部分に先立って認識される全体としての形態としての「ゲシュタルト」と定義しており,全体の形態として身体を認知する(「身体空間」として扱う)ためには,(1)身体の恒存性,(2)身体の二重感覚,(3)感情的空間としての身体,(4)身体運動感覚が必要であるとしており,工学的視点では(1),(2)が重要と考えられる.

近年、道具の身体化に関する研究は沢山行われています。例えば、こちら。このような研究がどんどんと行われていき、いつまでも自分のしたいことは自分でできる、そしてその裏ではテクノロジーがさり気なくサポートしている、そんなことができたらなぁと思います。


Twitterでは気になったロボットやWell-beingの関連ニュースなどを発信しています。よければ、フォローください。

では、また来週。



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

うれしーです!
7

安藤 健/Takeshi Ando

理工、医学部の教員を経て、パナソニックでロボット研究から新規事業開発まで担当するマネージャ。ヒトと機械の関係に興味有。Robotics HUB https://bit.ly/2YJrAUN Aug Lab https://bit.ly/2YojcP1 など担当。個人の意見です。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。