我々の教科書にも日本が戦争を始めた理由が載っていない

第一次世界大戦の講和であるベルサイユ条約のために、当時のアメリカ大統領であったウィルソンが14ヶ条の平和への道を示している。その第5条に「植民地問題の公正な措置」がある。これは何を意味するかというと、民族自決の自由を認めるということだ。
これは植民地や併合などで、強制的に他国他民族を縛るのではなく、彼ら自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利を認めるという、まあ今では当たり前の概念である。

ベルサイユ条約では非常に限定的にではあるが、この民族自決の自由は認められて、この考え方はこれからは国際協調が必要だよねということで発足した国際連盟にも当然取り入れられることになる。そして日本はその常任理事国になった。
しかし日本はこの民族自決の自由を、他国もそうじゃんと、積極的に取り組むこともなければ、ベルサイユ条約全権大使西園寺公望が、日本に関係のないことに口を出すことまかりならんといわれていたように、以降国際連盟に於いてすら同様の振る舞いをするのである。

なぜ抗日運動が激化したかというと、民族自決の自由という概念を提示された以上、それをアジアのリーダーとして日本がやってくれるのではないかという人たちの気持ちを落胆させたからに他ならない。そしてこれで修正史観の大ウソが分かったことと思う。

日本がアジアを欧米の植民地から解放したというのは、全くの大ウソなのだ。言い出しっぺは、アメリカなのである。
それに日本は国際連盟から脱退せずにできたはずだ。仮にも常任理事国だったのだから。ところが満洲という漠然とした地域を国に仕立て上げるという、岸信介や石原莞爾ら高級官僚らの独断先行の社会実験が行われていて、それを現状追認したのである。
そして満州事変によって国際連盟を脱退した日本は、オレ連盟加盟国じゃないからとばかりに、日華事変という宣戦布告のない中国との戦争に突入し、太平洋戦争では石油の確保のために南方のアジア諸国を植民地化してゆくのだ。

そして、ついに日本は戦争によって国民が豊かになれる国になったのである。

日中戦争が始まったのは昭和12年である。昭和6年生まれの父親は、外地で生まれ育ったが子供の頃は「勝ったぁ勝ったぁまた勝った〜」と唄い、祖父は今の北朝鮮咸鏡北道道庁の会計課長であったから、暮らしむきも大変に良かったであろう。
そして陸軍の駐屯地のあるところは、実によく栄えたのである。

飲み屋や売春宿百貨店や小売店が軒を並べていたのである。

しかし問題があった。東條英機は、実は少数精鋭主義で徴兵した一般国民は兵隊として役に立たないという考え方の持ち主であり、徴兵検査に合格しても兵役に就かない者が五割もいたのである。結果的に二年の兵役を終えた者が、何度も徴兵されることになるのである。
これが所謂古参兵のほうが小隊長よりも偉い、いわゆる下克上という状態を日本陸軍に生み出してしまうのである。日中戦争によって帝国陸軍は既に内部崩壊を起こしていたのであり、これは当然に満州国の関東軍も然りである。

だから当時の陸軍軍人の軍は関与していないという証言など、あてにはならないのだ。そういう現場だったのだから、軍規もクソもないのである。古参兵が上級兵を殴って脅して当たり前に処分されない軍隊は、もはや軍隊とは呼べないならず者集団だからである。
なぜ陸軍がそういう状態であったかを示すものが、国内の刑事事件となっていくらも残っているのだから仕方がない。猟奇事件の山である。戦前戦後には連続殺人事件、それも真犯人が捕まっていない冤罪事件が起きているのだ。

いいかい、例え戦場が外国であろうと戦場で辛酸を舐めて帰還した兵は、何らかのために戦ったという矜持を持ちつつも、人を殺したという罪の意識を、持ち続けるのだ。と、同時に死んでいった戦友と、生き残った者とで何がそれを分けたのか答えの出ない問答を、死ぬまで続けることになるんだよ。
その過程で心を壊してしまう者は、幾らでもいる。帰還した国が平和であればあるほど、自分の見てきたことしてきたこととのギャップに苦しむことになる。

例えば映画『ランボー』で、主人公ランボーはトラウトマン大佐にこう言った。「駐車場係の仕事もない」と。
アメリカでは多くの場所でバレーパーキングといい、客の乗ってきた車を預り駐車場まで運転して、客が帰るときに車を持ってきてキーを渡すのと引き換えにチップをもらうという簡単な仕事がある。ベトナム帰還兵は、反戦運動だけでなくPTSDによってそういう仕事すらできなくなっていたのだ。

太平洋戦争の帰還兵はみな頭がおかしいといっているわけではないよ。ただそういう帝国陸軍のなかで生き残った者は、罪の意識から全て語って楽になろうとする者や、あまりの罪の重さに語れないままでいたり、些か勇猛果敢な青春時代として処理せざるを得ない者などいろいろいるということだ。

当時売春を国家が認めていたからといって、人身売買をして騙して娼婦に仕立て上げ、挙句つけられる値段が日本人と朝鮮台湾人は違う、しかも辞めることもできないという状態に置く。すでに内部崩壊している軍隊組織を、維持するためストレス発散装置として利用した。
それを従軍慰安婦と呼ぶのだ。
ただの娼婦とは違うぞ。すくなくとも家族が暮らせなくなるからと、自分で自分が売られることを納得したわけでもない。挙句日本は、進駐軍対策にとRAA(特殊慰安施設協会)を、ご丁寧にも作り上げたではないか。
なぜ慰安婦像の横に、誰も座っていない椅子が置かれているのか気にならないか?ここまでスレッドを読んでくれた人にはお分かりだろう。
人間はそういうことをするものとはいえ、とりわけ日本人は、他のアジアの国民を対等に扱おうとはしない。あの椅子はそこに日本人が座るのを待っているのだ。

つまり日中戦争も太平洋戦争も、我々が世界と対等につきあおうとしない、とりわけアジア諸国とは一段高いところにいる、そういう差別意識から始まったのである。

そんなもの歴史の教科書に載せられないから、我々の歴史の教科書にも載っていないのである。

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