会ったことがない女

その女の名前は知っている。
住所も諳んじることができる。
会ったことはないし、多分会うこともないだろう。

だが、その名前を見たらどうすべきかは教わっている。答えは「弾く」だ。

残酷なようだが仕方がない。そう決まっているのだ。平日ならそんなことをしなくてもいいが、週末や祝祭日はそうしろと上から言われているのだ。

これも仕事のうちだ。

そういう女は、忘れることができない。

それにしても今日はいったい何個来るんだ?
オレ一人だけで10個近く運んだぞ。

平日だから弾かないで積む。そうすればドライバーが荷物を届けてくれる。

妻に先立たれ一年近く引きこもったオレには、金がない。一周忌を控え、やっとこのままではいかんと一念発起して昨年の12月から某宅急便の早朝アシストのバイトをすることにしたのだ。
朝五時から九時までの契約だから、漫画や小説も書けなくはない。他の兼業作家に比べたら、半分以下の時間だ。

と、思ったのだが甘かった。12月というのは運輸業界では前月比200%超に流通量が跳ね上がる繁忙期だったのだ。
初日から六時間近く働かされて、最初の一週間は筋肉痛と疲労で風呂にも入らずひたすらベッドに横たわっていた。

約一年も引きこもっていれば、どんなアスリートでも衰えるものだ。ましてやオレはただのオッサンでしかない。
バイト先の大将は、無理に重い荷物を運ばなくもいいと気遣ってくれた。オレが持ち上げられなかった荷物を、どってことないといいながら、持ち上げて配送先のトラックまで運んで行くのだ。恐るべし。

早朝アシストは、支菅と呼ばれるでっかいセンターからトラックでやってきたカゴ(底辺1m×1m、高さ約2m)に満載された荷物を、自分の担当する町のトラックに積み込むのが主な役割で、その時に少しハイテクなものを使って荷物の情報をサーバーに送ったりもする。

1月になり繁忙期が終わると、オレにもそのハイテクなものを使うようにと、大将から指示された。そして任された町で、その女について知らされたというわけだ。

毎日のようにそういう作業をしていれば、どうしても印象に残る名前と住所というのはできてしまうものだ。

その女の名は……

契約に反するので言うことができない。
会社というのは、そういうところらしい。

だが、ありがたいことに、荷物を運んだりしている間は、先立った妻のことを考える余裕があまりない。
そうやって今までとは違う、新しい日常を作っていかなければならないのだ。

とはいえ、名前も住所も知っているが、会うことのない女にはなんの興味もない。愛しているのは先立った妻たった一人だからだ。


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