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前衛というデザインの条件


ここでいう前衛とは

芸術活動やビジネスなどにおいて、既成の概念や形式にとらわれず、先駆的・実験的な表現を試みること。また、その集団。

を意味する。


僕自身「前衛」的な活動や思考が嫌いではない。むしろこれだけテクノロジーが進化し始めている時代に「前衛」的な作品や活動が出てくることは当たり前なことだと思っている。

僕も個人的に建築という分野で「前衛」的な仕事や活動をしてきた方だと思う。

例えば、学生時代からまちづくりに関わり、場の価値を創造する活動や建築模型を作る技術を使ってアート作品を作り、そのアート作品を未来の建築として建築分野に戻してくる試みなど、これからの若い人たちが建築で生きていけるように分野の職能を広げる活動も行ってきた。

学生時代に関わった「史跡×歴史×地域-プロジェクションマッピング」PJ

アートから生まれた作品が構造家の江尻先生の個人賞を受賞

アートから生まれた空間模型を建築家の登竜門U-35建築家展で展示

僕の場合、学生時代から減りゆく建築仕事の現実の中でどのようにすれば生きていけるかを模索してきたし、自分自身が道を開くことで自分より若い建築家を志す人のためになってほしいという強い信念があった。


そういった思いの中で僕の「前衛」には条件が生まれた。

その条件は人によって違うとは思うが、これだけは言える。


「前衛」≠「単なる新しさ」


「前衛」は先人が作り出してくれた「認められた世界観」や「残ってきた伝統」の上に成り立っている。だからそこを無視して「前衛」と語ることは、良いとこ取りだけをした「身勝手」になりかねない。


さらにSNSがこれだけ普及すると、ある現象が起こっているのではないかと感じている。

それは「必要な批判」と「無視すべき批判」を一緒に考えてしまう感覚だ。


SNSは多くの批判が集まる場所でもある。「前衛」的なものには特にそうだろう。だから本当に必要な批判と無駄な批判を見分けられず、ただ単に批判に対して批判を繰り返す構図が見て取れる。

「前衛」はその渦中にいるのではないだろうか。本当に必要な批判も無駄な批判のように捉えられ「新しさが分からないのは老害」という安易な返答が生まれている気もしている。


その「前衛」に先人が作り出してきたような奥深さはあるか。

その「前衛」に誰かを救うような優しさはあるか。

その「前衛」に人をのめり込ませるだけの魅力があるか。


僕は常に必要な批判を自分にぶつけて「前衛」を作っていきたと考えている。


竹鼻良文/TAKEHANAKE

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