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【番外編】【親亡き後をぶっ壊せ!!!!トーク】~熊谷晋一郎×テンギョウ・クラ×久保田翠~

2018年2月2日「表現未満、」文化祭にて行われた、熊谷晋一郎×テンギョウ・クラ×久保田翠による、「家族」という既成概念をぶっ壊し、新しい「自立」のかたちについて考えたトークイベント「親亡き後をぶっ壊せ‼!!」書き起こしを、全編無料公開!!

開催日:2019 年 2月2日(土)
場 所 たけし文化センター連尺町
ゲスト
● 熊谷晋一郎(東京大学先端科学技術研究センター准教授、小児科医)
● テンギョウ・クラ(ヴァガボンド)
● 久保田翠(認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ代表理事)
助成:2018年度静岡県文化プログラム



「『親亡き後』、私はこの言葉が大嫌いです。」

久保田 今から行うトークのタイトルは「親亡き後をぶっ壊せ!」。

かなり乱暴なネーミングです。私には重度の知的障害のある息子がいます。息子は昨日で 23 歳になりました。ちなみに私は 56 歳。母親の私はこれからも年を取り体が弱くなっていきます。けれど、息子はまだまだ20 代で元気なままです。このようにタイトルにある「親亡き後」とは、親がだんだんと体が弱る年齢になった時に、障害のある子どもを残して親が先に亡くなることの不安を象徴した言葉なんです。でも、「親亡き後」と言っているのは親の都合ではないかと思うんです。私はこの言葉が大嫌いです。

私の息子は言葉を発しません。意志もはっきりと分かりません。何を食べたいか、どういう生活をしたいか、といったことがはっきりと親は分からないんです。だから、どうしても親が先回りをしていろいろと考えてしまいます。でも、親がいなくなったらどうするかなんて考えているのは親だけで、息子は気にしていないかもしれないんです。

さらに言うと、このことは人権の問題じゃないかと思う時があります。父親である私の主人は病気をもっていて、だいぶ前に倒れました。それでも私と一緒に息子の世話を一生懸命やってくれたんです。でも、主人の体調はどんどん悪くなってしまって。それからは、いろいろな方々に助けていただいて何とか生活しています。

このようなことから、今の福祉制度には「親は死ぬまで子どもたちを介護せねばならない」という思い込みがあることに気づきました。だから、重度の障害があるなしに限らず、また、自分と子どもの幸せを天秤にかけるのではなく、私の人生は私の人生、息子の人生は息子の人生としてお互いに幸せになるよう自分たちで作っていかねばなりません。そんな思いから生まれたのが、この「たけし文化センター連尺町」です。3階建てで、1階と2階が生活介護の施設です。3階はこれから準備をして、将来的に重度の知的障害のある方々のシェアハウスや、ふらりとやって来られた一般の方を対象としたゲストハウスを行う予定です。

浜松市は、大きな施設が重度の障害者の生活を支えてきた歴史があります。だから反対に、大きな施設以外の生活の手だてがとても少ないんです。ヘルパー事業も同じで全く発達してない地域です。ヘルパーさんがとても少ないし、ヘルパー事業自体がとても少ないんです。なぜこんなことを言っているのかというと、障害のある子どもから親が離れることで足りなくなった生活の手を、ヘルパーさんや有償・無償のボランティアさんたちなど、いろんな人たちで支えあって、生活を作っていこうと考えているんです。ここの障害福祉施設アルス・ノヴァにはスタッフが 23 名いますが、前職で障害福祉関係の仕事をしていたスタッフはほとんどいないんです。文化系の大学出身者や文化系の仕事をいていた方が多くいます。

この活動をやっていて思うのは、こうした文化系の人たち、引きこもりの人たち、ニートの人たち、精神疾患のある人たち等、定職に就かない、あるいは定職にあまり就きたくない人たち、そもそも就けないと思ってるような人たちが、特に重度の知的障害のある方々に合うということです。そのため、そういう方々をしっかり取り込む人材育成からやらなきゃいけないと最近感じています。

面倒を見てくれる場所が家族から大規模施設に代わった

熊谷 今日のテーマの「親亡き後」ですが、この問題は私個人だけでなく、障害者たちの歴史を振り返ったときにも大きなテーマです。そもそも日本では障害者運動が 1960 年頃から始まりました。障害者運動というのは、障害者が町に出てもっと暮らしやすい社会にしようと始まった運動です。かつては、健常者になったら仲間に入れてやるけど、なれなかったら町の外にある閉鎖的な施設に行って一生を終えてね、という時代があったんです。

でも、健常者になれなくても社会の中に飛び込んで社会の側に変化を求めてみんなにとって暮らしやすい街を作るべきなんじゃないか、と言い始めたのが 1960 年代の障害者運動でした。ちなみに、今、次の段階の重度知的障害の現場の最先端で町に出ようとやっているのがレッツさんだと私は思っています。60 年代の障害者運動は私のように手足が不自由な身体障害を持つ人が中心でした。そもそも何故 60、70 年代に障害者運動が始まったかというと、親亡き後問題がきっかけだったんです。

つまり、先に親の運動があって、後に障害者運動が起きたという順序です。当時、親が障害児を殺す事件がたくさん起きていました。子殺しの時代です。背景には、親だけがこの子の面倒を全部みているのだから親が死んだ後にこの子の面倒をみてくれる人なんて世の中にいるわけがない、という思いから、一緒に死ぬか子を殺して自分も後を追うか、と追い詰められた状況があったんです。

つまり、憎くて殺すのではなくて愛情のあまり殺していたわけです。
これに対して世間は、好きで障害児を産んだわけではないのに親が全部
の面倒をみなければならないとは人権侵害じゃないか、親がかわいそう
だと親を応援しました。それを後押しする形で国が動きました。親だけ
が面倒をみるのではなく親亡き後も安心して過ごせるように大規模入所
施設を地域から外れた場所に国が造り始めました。こういったことによ
り問題が解決したかのように見えたんですが、よく考えてみると救われ
てない人がいます。親は救われたかもしれませんが、障害児や障害者は
どうでしょうか。面倒を見てくれる場所が家族から施設に移っただけな
んです。大規模施設と言っても町から離れた隔離的な施設で、当時は虐
待などが行われていた施設もありました。けれど、この問題に障害者目
線から取り組んだ人は当時誰もいなかったんです。それで、これはおか
しいんじゃないかと始まったのが障害者運動です。

そして、障害者運動は「地域」にこだわりました。「地域」という言葉
には、二度と家族のところには戻りたくない、二度と閉鎖的な施設には
戻りたくない、という強い思いが込められています。その歴史を少し振
り返っておく必要があると思うんです。
当時の障害者運動のスーパースターに横塚晃一さんという人がいました。脳性まひの障害者ですが、横塚さんは「母よ!殺すな」というタイトルの本を書きました。刺激の強いタイトルですね。当時、障害者が母親を責めた本だとタイトルから誤解されていたんです。けれど、中身には「母に殺させるな」ということが書いてあるんです。手を掛けたのは母親だったかもしれない。けれど、真犯人は母じゃない、母に殺させた真犯人がいる。それは君たちだ、つまり、読者であると。一人一人の中にある、障害者は価値がない、一緒に住みたくない存在、かわいそうだ、といった差別や偏見があるからこそ障害を持つ人を育てる親を支えようとしない地域社会がある。その地域社会こそが真犯人だったんだ、と。加害者と被害者という言い方は勘違いされやすいけれども、障害を持った子どもや大人、そして、支えている家族もまた地域社会によって人権を奪われている存在なんだ、と本にあります。これは絶対に真犯人を間違えちゃいけないということでもあるんです。その真犯人を間違えさえしなければ、障害者とその家族は連帯できる。けれども、真犯人を間違えちゃうと刺し違えてしまう、といったことをこの本の中で横塚さんは述べています。

厳しいリハビリから抜け出すため東京へ

熊谷 次に、私自身の話を少しします。私は、障害者運動が始まって少し経っった 1977 年に生まれ、山口県の田舎の方に住んでいました。ちなみに、障害者運動は、割と東京や神奈川、大阪で起きた話で、この頃はその影響が山口にまで上陸していなかったのでまだまだ古い考えの人が多かったです。
私の親はどうだったかというと、とても愛情深い人でした。愛情深いというのは良い面と怖い面の両方があります。母は本当に熱心に私のケアをしてくれました。一方で、子どもに地域社会を近づけるのではなく、地域社会に子どもを近づけるという発想でした。だから、少しでも健常者に近づくことが私の幸せだと思って1日に6時間ぐらいリハビリに明け暮れていました。当時のリハビリは、健常者みたいな体になるための物理的に力任せでリハビリを行うような時代だったので、結構痛くて全身はいつもアザだらけでした。
親からすると、生まれる前に抱いていた我が子の健常なイメージがあって、生まれたらそうではなかったから元に戻したいという発想になることはあると思うんですが、私は生まれた時から障害者で生まれついてのこの体だから、変化したいとは思いもしなかったのでリハビリという感覚が持てなかったんです。

当時の私は母親を見て、強い鋼のような意志を持っているなと感じていました。つまり、リハビリすることを正しいことだとして全く疑っていないように感じたんです。もう恐ろしかったんです。私はリハビリ中に2回骨折しているんですが、リハビリをして骨折するというのはおかしなリハビリなんです。だから、家族や周りの人はやり過ぎなんじゃないかと言っていましたが、母親はそんな声も聞かず迷うことなくリハビリをやっていました。それには専門家の問題や責任もあると今では思います。当時のリハビリの教科書には、一生懸命やれば 93%治ると書いてあるんです。80 年代になるとそれが間違いだとが分かるんですが、もし 93%治ると言われたら、多くの人がやるんじゃないでしょうか。だって、こんな言い方では残りの 7%の方はネグレクトです。こういうことで社会が動いていた時代でもあったので、母を責めることはできないんです。

最近、母も歳を取って人の世話よりも自分の世話で精いっぱいになってきて、ようやく弱音を吐くようになりました。すると、墓場まで持っていくはずの話が母の口からぽろぽろとこぼれるようになって、当時は母も心が折れそうだったと直接聞きました。
実は、母は鋼のような意志を持っていたのではくて、いつも迷いながら仏壇に手を合わせて「この子のことを最後まで支えられるのは私以外いないのだから、あなたのやり方はまずいと言われて私がひるんだらこの子は見捨てられる」と思っていたようです。それを聞いて私は安心しました。鋼のような意志ではなく、迷い葛藤しながら、しかし、その道を選んでいた。愛情深く選んでいたということを知りました。

熊谷 でも、そういう状態から抜け出さないとまずいことは明らかに感じていました。だから、小学校中学校ぐらいに親亡き後をだんだんと想像するようになってきました。そんな時に障害者運動の先輩が目の前にさっそうと現れたんです。彼らは地域の中に部屋を借りて赤の他人に支えられながら生活をしていたんです。重度の障害があっても生活している姿を目の当たりにしたのが、中学校ぐらいでした。すると、先輩たちは寝たきりのような車椅子に乗りながら夜な夜な飲み歩いてるとか、デートしてるとか、子どもが生まれたらしいとか、そんな人生を謳歌してる情報が耳に入ってくるわけです。詳細は不明でしたが、中学校時代の私にとっては希望そのものでした。それで、「親から離れて暮らしたい」、「東京に行きたい」と18歳頃から親に言い始めました。もちろん親には猛反対をされて、東京に行くと通行人がいきなり首を絞めるらしいよとか、怖い人がいっぱいいるらしいよとか、脅し文句のオンパレードだったんですけれど、これに騙されちゃいけないと思いながら生活面のことなど自分なりにいろいろと計算をして東京へ引っ越したわけです。

弱い私たちが弱いままで強くなる。唯一の方法は依存先の数

熊谷 こうした一連のことが、私が身を持って体感した「親亡き後」を巡る歴史です。けれど、問題はその後の「親から離れた後にどんな暮らしを立ち上げるのか」なんです。
地域に出れば良いのかというと、決してそういうことではありません。地域が桃源郷では、もちろんないんです。行政の監督を受けるとその範囲内で生活を組み立てなければなりません。だから、下手をすると地域も施設のような管理される場所になってしまいます。だから、地域に場所を移したとしても自由や人権が自動的に保障されるわけではないんです。じゃあどうするのか。それが「依存先」ということなんです。
「依存先」とはなにかというと、私が一人暮らしを始めた際、先輩の障害者から「とにかく介助者は 30 人キープしろ」と言われたんです。つまり、質より量だということです。私はてっきり質かなって思っていました。先輩にどうしてかと聞いたら、次のように答えました。「介助者は、ロボットじゃなくてなまものだ。だから、機嫌の良い時もあれば悪い時もある。調子の良い時もあれば悪い時もある。たまに暴力的にもなり暴力的な言動を向けてくることもある。そういうなまものなんだ」って。
私たち障害者はそういうなまものの介助者無しには暮らせないわけです。でも、私たち障害者は裸一貫です。赤の他人、つまり、全然信頼関係がない人に対して、真っ裸でお風呂に入れてもらったり、トイレに連れてってもらったりして、完全に無防備な状態なんです。本気で悪意があって手を出されたら、ひとたまりもありません。

相模原の事件は、その潜在的な恐怖が顕在化したことで、私たち重度障害者にものすごく大きな傷を付けた事件でした。ただ相模原の事件に限らず介助者と障害者の関係は常に危うさを持っています。障害者と介助者は平等だとかロマンチックな関係なんだといった危うさから目を背けるような風情はたくさんありますが、そんな話ではありません。ここには圧倒的な力の差があって、その事から目を背けちゃいけない。圧倒的に弱い私たちが弱いままで強くなる唯一の方法が数であると先輩は言ったんです。たまに介助者が機嫌が悪くなり暴力的になることは避けられないことがあったとしても、暴力的な関係が常態化しないことが大切です。その時に介助者が1人だけだと他に逃げ場が無いんです。すると、暴力的な関係はだんだんとエスカレートします。もし他に 29 人の介助者がいたら私たちはその人との介助関係をやめることができます。依存できるものが沢山あったほうがいい、というのはそういう意味です。

親との関係も依存先の問題だと思いました。親と子の関係が駄目ではなくて親にしか依存できないという状態が、障害者にとってはとても危うい状態なんです。赤ちゃんの頃は親にしか依存できませんが、成長するにつれて次第に友達や先輩、学校の先生といった依存先が自動的に増えていくんです。けれど、残念ながら地域社会は健常者向けにデザインされていて障害者は依存先が自然に増えていかないんです。だから、障害のあるなしに限らず、依存先が年齢とともに広がっていき、やがて親が亡くなっても残り 29 人の介助者がいるから大丈夫という環境が実現する地域社会を目指さなくてはならないというのが私の考えです。


親のロマンをぶっ壊せ!

テンギョウ はじめまして、テンギョウです。20 年ぐらい国や地域に関係なく居いそうろう候し続けています。さっき晋一郎さんが依存先と言いいましたが、僕も世界中に依存先を見つけながら自分で労働をせず、社会からの責任に応えず、誰からの期待も負わず、嫌になったらその土地から消えるという社会から圧倒的に信用されない生き方をずっとし続けています。

俺はこの生き方をヴァガボンドと呼んでいて、かつてのヴァガボンドはやむにやまれず依存症だったり何か理由があってコミュニティーから省かれた浮浪者や無宿者たちのことを言ってたんだけど、あえてコミュニティーとか何かに属さない生き方を選んで生きる方法もあるんじゃないかと思って、俺はヴァガボンドをポジティブに捉えて自分の生き方としています。それで今回、翠さんがヴァガボンドをそのまんま仕事にしてやってみないかと声をかけてくれて、たけし文化センター連尺町に3ヶ月間滞在をしています。

「親亡き後をぶっ壊せ!」というタイトルですが、人間が幸せに生きていくために大事なものって、親の愛情から受ける感情や情緒みたいなものに加えて、やっぱり自尊心が必要だと思います。自尊心とは、自分が何かやりたいことがあったときに、周りが止めようとしても障害があったとしてもやり切る力のこと。それは親からでなくて他人からでも学べるし、自分の中でつくることができます。この「親亡き後をぶっ壊せ」が言ってることは「親のロマンをぶっ壊せ!」、つまり、社会や他人が親の役目をどこまで担保できるのか具体的に明かしていくことだ、と思うんです。


自分の意思で自分のやりたいことを選んでいける権利が、自立

テンギョウ 自立とは自分の意思で自分のやりたいことを選んでいける権利。それこそ基本的人権みたいなものであって、あなた自立しなさいよと言われなくても、みんな自立できるんだよっていう話。でも、今のこの社会、それを自立させないような我慢ベースの仕組みになりつつあると思うんだよ。それを自立させないみたいなことが、何か今の社会で起きてるんじゃないか。一人一人やっぱり生きていくうえで、障害の有無や大人子どもに関係なくみんなが日々の中で気を済ませながら生きてるんじゃないか。

「朝起きた、お腹が空いたな、じゃあご飯食べよう、気が済んだ」、「よし、じゃあ今日はあの人に会いに行こう、会いに行った、気が済んだ」、そ
ういう感じで日常って進んでいくと思いますが、子どもの時にはやりたいことをやりながら気を済ませていたのに、だんだん集団の中で生きていくようになると「みんな我慢してるんだからあなたも我慢しなさいよ」、「周りを見て自分のやることを考え直しなさい」と、いつの間にか自分を抑制するタイプの「気の済ませ方」になってしまいます。意欲的ではない受け身な形の気の済ませ方です。これが続くと、人の自尊心は絶対に歪むと思う。

こういう例がいいかわからないけれど、東日本大震災が起きた後に、俺は福島にコーヒーの炊き出しに行っんです。震災で自分の町が無くなってしまったという時に、ある地元コミュニティが「みんなで集まってここを立て直そう」と言って、瓦礫の中で寝泊まりをして、炊き出しをやって、その時のみんなはすごく生き生きした目で頑張ってたんです。けど、2週間ほど経ってて、地方行政が来て「ルールだから全員ここから退去してください」と言って、そのまんま避難所に入れられたちゃった。それから1カ月経って、その人たちは本当に顔つきが変わってたんです。

やっぱり自分たちで選んで行動していくことを許されなくなったら、人間は
ここまで元気がなくなるんだと衝撃を受けました。だから、コーヒーの炊き出しをしようと考えました。でも、時期的にコーヒーはまだ早かったから出発前に「今はコーヒーじゃないだろ」と周りから言われました。あと「今だったら服や食べ物がいいんじゃないか。そんな嗜好品は持ってくな。」とも言われました。だけど、俺は逆だと思ったんです。むしろ、いつもの日常に近くて、自分が飲みたいとか反対に飲みたくないとかって気軽に選べる物を持って行って「お前、コーヒーなんか持ってきてんじゃねえよ」と断って欲しかった。そうやって自分のアクティブさを取り戻して欲しかったんです。そういう一つ一つが自尊心につながっていくと思うんです。

他に、例えば学校という環境も、周りの意見が自分の意見よりも尊重されやすい環境だから、学校で与えられる評価が自分の評価になりやすい。そうなると「やっぱり周りの期待に応えなくちゃ」という考えになっていっちゃう。親の期待に応えないと私はこの家にいちゃいけないんだろうか、とか。そういうことを思わせたら、親として本当に考え直したほうがいいと思う。本当に自尊心がある子は親の期待に応えようが応えまいが「俺ここにいていいんだ」って言えるはずだもん。


繋がりの二階建て構造

久保田 さきほど熊谷先生から「依存先を増やす」とご提案がありましたが、「依存先」という言葉がちょっと気になるんです。どういうことかというと「依存」と言うと一方的に何かに寄り掛かるように思ってしまうんです。世間的に重度の知的障害者は、社会的に何の役にも立たない、役割が無い、と思われています。でも、私が障害福祉施設を運営していてこの人たちには社会的な役割がものすごくあるなと、すごく感じています。それは「何もできないという状況を社会に知らしめる」ということです。つまり、たくさんの人が「何かできなければいけない」と思い込んでいる社会の中で、彼ら彼女らに触れて「何にもできなくても生きていけるじゃん」と思ってもらいたい。アルス・ノヴァにも、利用者さんの独自な生き方に魅了されて、いろんな人たちがやってきます。だから、「依存先」とおっしゃったんだけど、30 人がそれぞれ役割があって働いてくれるというよりは、お互いにギブアンドテイクな関係というのを 30 人ぐらいだったら彼らは軽々とは築けるんじゃないかなって思うんです。

熊谷 今の行政が提供するヘルパー制度は、基本的には家でじっとしているか、ちょっと外出するくらいならいい、という、まさにホームヘルパー制度なんです。仕事をしたいとか勉強をしたいと思ったら「それは無理です」と言われます。
そういう中では、さっきテンギョウさんが言ったコーヒーが本当に無かったら、そもそも自尊心が育ちません。自ら選び取って、そして希望を持って生きていくことにはなっていないのが今のヘルパー制度だと強く感じます。コーヒーの例はとても重要なポイントだなと思いました。また、翠さんが言ったこともすごく重要だと思います。トイレに行くとかご飯を食べるいったことを平場の関係でやっていた時代がかつてはあったんです。だけど、平場の関係って良い意味で束縛がなくて自由なんだけど、情緒的な繋がりを維持するために非公式のメンテナンスみたいなものが必要になってくる部分があったと思うんです。それはレクリエーションだったり、マージャンだったり、カラオケだったり。本当の意味でお互いに自発的で楽しいうちはいいんですが、例えば、関係を維持するためにマージャンに毎晩付き合わないといけなくなった、といったエピソードがかつての身体障害者の世界にはありました。

だから、トイレやご飯のような生存に関わる基盤においてはフラットではない関係で、その上に発生する豊かな人間関係ではフラットな関係で、という人と人の繋がりの「二階建て構造」みたいなモデルが出てきたんです。二階の「豊かな人間関係」の部分については久保田さんがおっしゃったとおりで、相互依存というのかお互いに何かを交換し合えるフラットな関係だといます。一方で、一階の「相互に交換しなくても権利として得られる」部分については、一方通行で構わないと今は整理をしています。

そして、なぜ「家族」がややこしいというと、一階と二階が混ざってしまっているからです。「愛情深いフラットな人間関係」か、それとも「生存のために必要な人間関係」か、それらが一緒にパッケージされてしまっ
ているのが家族のとても怖いところだと思います。

テンギョウ ここに来て3カ月の間、メンバーたちと一緒に過ごしてき
て確信してるんですが、治療や改善の対象になる障害はある。セルフケ
アができないというのも分かる。でも、それとは別の次元に、本人とそ
の周りの人たちとの関係性の中で障害性が立ち上がったり立ち上がらな
かったりすることを俺は感じたんです。
 例えば 100 メートルを1時間も2時間もかけてマイペースにゆっくりと歩く人がいたとします。その人と散歩に行くことになった時、一緒に行く人が 30 分後に大切なミーティングが入っていたら彼の行動は問題になるけれど、何も予定が入っていない暇人が一緒に行けば、本人の歩くペースは遅い問題にはなりませんよね。俺は結局はそこに尽きると思ってるんです。

だからこそ障害のある人、特に、自分から他者と出会えない人たちが、社会の人たちとダイナミックかつ緩やかに出会えるような場所があれば素敵だなと俺は思いました。
気の合う人たちが少しずつ関わっていける場所で、それこそ晋一郎さんが言ったとおり、社会に露出して、出会って、乱れ撃ちのようにいろんな人たちとの出会いの中から関係性をゆっくり築いていく、障害性の立ち上がりにくい関係を築いていく。その一つの例としてこのたけし文化センターがあると思うので、そうやって少しずつ希望のある社会ができていくといいなと思います。



2018年度「表現未満、」プロジェクト記録集より





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