アトリエと先生

父は昔、画家になりたかったそうである。父の父は早くに亡くなり中学生の頃は学徒動員に駆り出され、戦後は働かなくてはならなかったので、諦めたらしい。私が幼少の頃、一度だけ絵を描く父を見たことがある。お正月だったと思う。工芸高校出身で絵を描くのが好きだと公言していた。母や周りの人に描いてみたらと言われたのか、仰々しく和紙やら画材やらを並べ、頭にタオルを巻いて、描くぞ!といういで立ちだった。子供ながらに何が始まるのかと見ていたが、一向に筆が降り立たない。長年離れていたことから勘が掴めないのか、もともと遅筆なのか、とにかく横にいる母のイライラのイが始まりそうなぐらい持った筆が迷い箸のように宙をさまようばかりであった。最終的には何かの絵を描いたのだが、そこは覚えていない。それから後、父が絵を描いているのを見たことはない。

私も絵を描くのが好きで、父譲りだと言われた。幼児の頃は普通に幼児が描くような、女の子だとかお花だとかお家とお陽さまだとかを描いていたように思う。けれど描けば褒めてもらえたので描いていた。他のことは褒められもせず無関心か叱られるかどちらかだったが、絵を描くことに関してだけは褒めていただいたので、(思えば描いてる間は大人しいし、大して散らからないし、楽だったんだろうな、、、とスネ目線) チラシの裏なんぞにせっせと描いていたのである。

描き続けていると上達するものである。大人になって幼児画しか書けない人は幼児で描くことをやめてしまっただけである。絵の才能があるという時は、絵を描く才能というより、描き続ける才能だと私は思う。

学校では必ずといっていいほど絵画コンクールに入賞していた。どこかに習いに行きたいと親に訴えたが、親のツテでは市のカルチャーセンターで行われている大人向けの絵画教室ぐらいしかなく、何度か大人に混じって体験参加したりしていた。

歌劇のある市に引っ越してきて、たまたま通える近所にアトリエがあった。後年知ったのだか著名な画家の正統なお弟子さんで、自身もその世界では名の知れた画家でいらして、自宅で絵画教室を開催しておられたのだ。美大受験の学生さんや大人はアトリエを開放してデッサンや油絵を教えていた。そして小学生以下はガレージを使って絵画教室をしていたのである。母がどこからか聞きつけてきて通うことになった。

いかにも芸術家らしいユニークな先生で、私が小学5年生の頃に初めて会った時には、すでに頭は真っ白でおじいさんなのかおじさんなのかわからない年齢不詳な不思議な雰囲気をしていた。後から考えると50代から60代ぐらいではなかっただろうか。ガレージのすぐ横に部屋があり、そこで先生はくつろぎながら、ガレージやその前のスペースで自由に絵を描く子供を見ておられた。絵だけではなく、その言動や顔立ちから子供の個性を読み取っていた。奥様が占いや人相学をされていたようだった。ある時、何かの弾みで急に私の足の甲が痛くなり歩けなくて泣いていたら、その奥様がツボを一箇所刺激してあっという間に治ったことがある。普通の家とは感覚が違ういろんなことを知っている人たちだった。

クーちゃんという同級生も通ってきていた。丸顔で目が細く、岸田 劉生の麗子像にソックリだった。先生は「大きな目は節穴、不幸せになる。小さな目や細い目は物事がよく見えるから幸せになる」とその子によく言っていた。クーちゃんの両親は学校の先生で、おばあちゃんも同居していた。弟もいた。お母さんは眼鏡を掛けた真面目そうな人だった。お母さんとおばあちゃん、それからお父さんとも折り合いが悪かったようで、クーちゃんは飼っていたセキセインコをいじめてうっぷんを晴らしていた。よく喋る子だった。彼女は私をイジメの標的にしたことがある。服の中に泥を入れてきたりして、私もいじめられっ子らしくメソメソ泣いたりした。あんまりしつこいので周りの友達が同情して庇ってくれたものだから、彼女は逃げていった、、、と思ったら学校の帰り道で私が1人になるまで待ち伏せしていたのである。ここぞとばかりに罵倒してくるのだ。ところが庇ってくれる友達がいなくなりまたメソメソ泣くはずの私は、あまりのしつこさにプチンと切れて、ドスの効いた音声で「しつこいんじゃテメー!誰に向かっていうとんじゃワレ、しばくどゴラ」どやり返したのである。胸倉ぐらいは掴んだように思う。身体は私の方が大きかったので、たちまち形勢逆転、彼女は逃げてその後関わることはなくなった。その後中学までは同じ学校だったように記憶しているが、友達もおらず目立たないようにしていたのか印象はほとんどない。もしかしたら途中で転校していったのかもしれない。ちなみに罵倒のセリフは吉本新喜劇で学んだものであり、日常使うことはないが、その後、要所要所で役立つこととなるのである。

アトリエは中学高校と通い続けた。中学からは本格的なデッサンとなり、毎週土曜日の夕方6時から9時過ぎまでみっちりやっていた。当時一世風靡したオレたちひょうきん族の放映時間とぴったりマッチし、私はあの番組をリアルタイムで観たことがないのである。

デッサン中、先生はつきっきりではなく、奥の自宅で夕食をとり、時には晩酌をしてお酒を片手に最後の方で見にくるぐらいである。大人か受験生ばかりなので、私語もなくサラサラと鉛筆の音がするのみである。私は退屈して練りゴムで人の顔を作って、途中から受験の為に通い始めた同じ学校の子に黙って見せて、腹がよじれるほど嚙み殺し笑いをさせたものである。しかし中学高校時代に、とにかく黙って3時間以上デッサンし続けるという体験は、内観にもつながり貴重な体験だったと思う。

年子の兄が親孝行なもので、国立大にストレートで行った。私は美術系の四年大学を希望したが、お金がないと却下された。短大ならなんとかと言われる。しかしなんとなく親の敷くレールに乗るような気がして、自分で専門学校を見つけてきた。職人になろうと思ったのだ。アトリエの先生は美大を受けて欲しかったらしく最初は反対された。しかし我が家の事情もご存知だったので最後は自分で決めた道を行くのならと賛成してくれたのだった。そして高校卒業を期にアトリエはやめてしまった。

ハタチになる前だったと思う。母といつになく激しく喧嘩をし、体に震えがくるほど私は興奮して号泣しながら家を飛び出した。何度も経験を積み重ねた結果、着替えや身の回りのものをまとめた鞄は持ち出していた。しかし時間が遅く電車はなかった。号泣のまま、なせがアトリエの先生の顔が浮かび、そのままお宅へ伺うと招き入れて下さった。それまでも母との衝突のことを知っていた先生は、モーツァルトの話をよくされていた。モーツァルトのお母さんはモーレツ教育ママで、繊細なモーツァルトはお母さんが、女性が怖くて怖くて、でも愛情が欲しくてあんな美しい音楽を作ったのだから、キツイ合わない親も必要なんだ、芸術家としてはいいことなんだよ、と。それから、これからは貴女のような体験をする人が増えてくる。その時に他の人にはわからないけど貴女にはわかることがある。貴重な体験だから大事にしなさいと言われたのである。

ゲージツカだか何だか知らん〜フツーのおうちがよかった〜と号泣しながら聞いていたが、今になってみると、先生の予言恐るべしである。あ、ゲージツカにはならなかったが。

さらに後年、地元の名士でもあった先生と、あの歌劇場のとなりのホテルで偶然お会いしたことがある。先生は市長さんとご一緒で、私は地元の友人と一緒だった。お酒が入っていたのだろう、手招きして呼ばれ、市長さんに「私の弟子の優秀なひとりなんですよ」と紹介して頂き恐縮しながらも、とても嬉しかったのだ。お酒の上での冗談だったとしても、だ。

もっと闇の方へ足を向けてもおかしくなかった思春期に、アトリエと先生の存在はとても大きかったと思う。先生はもうご存命ではない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?