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竹美映画評④ 人生から隠れることはできないけれど 「誰もしらない」(2003年、日本)、「フロリダ・プロジェクト」("The Florida Project"、2017年、アメリカ)

昨年は「万引き家族」と「フロリダプロジェクト」を続けて観て、ふむ、日米では家族に対して求めるものがだいぶ違うのだなぁなんて思っていたが、最近「誰も知らない」を観てまた印象が変わった。

「誰も知らない」は、自由奔放な母親が、父親の違う四人の子供をアパートに放置して自分は別の男の妻に収まり、たまに金を送っては「いい母親」だと自らを錯覚する…母親の側を描くとサイコホラーに近いお話になるところを子供からの目線で描き、絶望感とユーモラスさが入り混じる異様な映画になっている。

「フロリダプロジェクト」は、フロリダのディズニーワールドの近くの安モーテルに住み着いた貧困家庭の母子の物語。こちらも子供をメインにしてユーモラスでありながら壮絶な映画。

この二本の映画、母親の子供に対する関わり方が正反対。フロリダの方の母さんは、髪の毛緑色に染めて、ドラッグも酒もやり、ともかく収入スキルが低い。その娘との仲はよいが、じゃあそのまんまその子が大きくなったらどうするの?となった時…やはり育てるのは無理でしょ、ってなる。学校行かせることも無理だろうから…そんな家庭がひしめき合うモーテルの色は、嘘のように明るく、ノーテンキだ。

「誰も知らない」のママは、悪い人じゃない。というか、自分が悪者になりたくない人なんだろう。子供達にも優しいのだが、「学校行きたい」と子供に言われても、「学校なんて行かなくても偉くなった人いるじゃない…」と責任回避。その実計算高く、自分は妻の位置に入り込むことを画策している。そしてうまく行くなら子供の存在は隠しておきたい。彼女の場合、生活スキルは低くない。バカではないの。多分、問題が起きたら人に解決してもらってきたのだろうし、うまくやり過ごし過ぎたのね。最後の方で起こる事件にどう反応するかは描かれないが、彼女なら悲しんで大泣きするだろうし、子供達を責めさえするかもしれない。

よう考えたらリアリティの無い女だが、ネグレクトする役にリアリティがあったら苦し過ぎて観ていられない。

この2つの映画、どちらも、世界や世間から、自分の意図とは関係なく隠されて生きる子どもの物語だ。いついなくなっても第三者が気がつかないような…それがまるで永遠に続く夏休みのように見える。でも、大人になって、それなりに生きてきた人には、夏休みとはいつか終わるものなのだが、彼らの場合、終わらない迷宮のようだ。だが夏休みしか知らなければ、それなりに生きてしまうではないか。

どちらの母親も、賢くない、自己中心的な、家族にとって合理性のない選択をしてきたのだろう。「誰も知らない」の母親にとって子供達は「隠しておきたい後ろめたい自分」なのだし、「フロリダ」の母親にとっては娘がたった一つ、この世で「うまくやった」と思える何かなのだと思う。これが、日米の家族観・母親観ともリンクしているような気がする。そのような違いがラストにも感じられる。

「誰も」の母親はラストの方にはほとんど登場しない。子供たちの人生から母親は隠れてしまった。時折お金を送ってくるが、いつ途絶えるともしれないし、いつ戻って来てしまうかも分からない。これは、ホラー映画ではないのにラストシーンまでほとんど呼吸するのを忘れて観てしまった。ホラー映画なら、亡霊が助けてくれたり、母親に制裁が下ったりするのだが…そう考えると、育児ストレスで壊れそうになっているお母さんを描いたホラー映画「ババドゥック」は(女優さんまで「誰も…」のYOUさんそっくりw)、育児ストレスの辛さをホラーとして描き、最終的に「子供を守るんだ」と決意して怪物(=自分の暴力衝動かもしれない)を飼いならしてしまうお母さんの物語になっている。だからホラーだけどハッピーエンドなのだ。ホラーの方がましっていう、私の考えたいテーマの一つである。

「フロリダ」では、母親にとって最も大事なモノ…娘と別れ別れにされそうになった時「FUUUCK YOUUUU」と怒鳴る。その口が大写しになるのだが、そこに社会批判が入っている。「どうして愛のある二人を引き裂くのか?」と。それと一緒に自分の貧しく愚かな人生への怒りも二重写しになっていると読める。これのどちらの割合が多いと感じるか…は恐らく人それぞれであろう。2003年の「モンスター」という映画で、貧しく学の無い女性リーが急に社会批判の演説をおっぱじめるシーン(唐突だ)と比較すると、恐らくは、「社会への不満」の脈絡と思われる。

こんな話を聞いた。

私の知り合いで現在難民申請中の人と一緒に暮らしている人がいるのだが、その相手と「フロリダプロジェクト」の予告編を観ていたとき、その難民申請中の人は、「私みたい」と一言言ったそうだ。住むところが無くて、何とか居場所を見つけ、貧しく小さく暮らしている母と娘の映像に、何を見たんだろうね。できることとできないことの相克、労働許可が無くて働けない自分の未来、そもそもいつまで日本にいられるのか…不安でいっぱいの毎日を考えてしまうでしょう。それでも楽しいこともあり、その生活が…本来の人生(それも傲慢な言い方ね)から少し外れているんじゃないかと思ったりするのだろうか。

でも結局、人生から隠れることはできない。自分から逃げることも。どんな形になっていたとしても、今その人が生きている日常こそが人生であり、住むところ。楽しいことや幸せなこと、美味しい物やおかしいものをできるだけ探しながら生きて、そうであっても悲しいことや苦しいことはどうせやってくるからね…そうやって生きていること自体、とても価値のあることなんだと…特に「フロリダプロジェクト」は教えているのではないかしら。それは虚構なのかもしれないし、毒入りお菓子かもしれないんだけど…じゃあ現実にはどういう解決策があるのよ。死ぬ以外の逃げ道があったっていいじゃないの。

何か最近、そういうことをよく考えるわ。

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竹美(タケミ・ガ・ミエタラ・オワリ)

ゲイでパヨクで映画ファンです。初の映画評を『キネマ旬報8月下旬号』に掲載させていただきました。「ロケットマン」について「変わり者が歩む黄色いレンガの道」という題名です。 こちらもどうぞ:http://aday.online/category/payoku/
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