透明な世界-安井高志歌集『サトゥルヌス菓子店』を読んで

竹中優子です。
マイペースに読んだ歌集の感想をあげていきたいと思います。(時々しかできません。)

安井高志さんの歌集、『サトゥルヌス菓子店』を読みました。
評を書くのが難しい歌集ですが、よいと思った歌を選びつつ、ぼちぼち感想を書きます。

気がくるうことはひかりを閉じ込めた氷に微笑みかけること 神さま

  この歌集には、「透明」を希求する歌が多い。この歌集にとって、透明になること、透明であることとは、どんな意味があるのだろうか。私はそのことを気にしながらこの一冊を読んだ。

ひとつひとつ羽を毟るていねいに毟るのですよ愛するように
飛び降りた少女はわたしをおいていくその脳漿の熟れる八月
彼岸花せめてくるしく裂けてゆけ身のうちがわに秋を重ねて
乳液をなじませる夜、ねたみとはいたわるように撫で回すこと
冷蔵庫へブロッコリーをしまう夜おやすみなさい肉切り包丁

  美しいものやひかりや愛と、暴力や死が否応なく結びついている世界。一首目、「毟る」という語に手触りがある。後半は、誰が誰に、呼びかけた言葉だろうか。「毟る」ことを止めることはできない。せめて、丁寧に。愛するように、毟るのですよ、と自らの手に言い聞かせているようにも思う。二首、三首目。この世界を解読しようと試みるとき、死は美しさを、美しさは残虐性をいつもはらんでいる。四首目。ねたみという自分自身のどす暗い感情と自己へのいたわりが絡み合って、どこにも出口が存在しない。五首目。日常的な風景を切り取ったかのような上の句(ブロッコリーは日常にあっても、異質な存在だと私は常々感じていますが……)。食材を冷蔵庫にしまうこと、おやすみなさい、と声をかけること、は、大げさな言い方になるが、明日が来ることを信じている人の行いである。夜遅く冷蔵庫を開けたときの明るさと冷気を思う。一方で、明日食べるために冷蔵庫にしまわれるブロッコリーは、もう死んでしまった存在だとも言える。冷蔵庫は、ブロッコリーの棺、でもあるのだ。結句の「肉切り包丁」はでたらめに選ばれた語彙ではなく、必然的に導かれる帰結なのだと思う。このやさしい世界の中では、いつも切り裂かれるのは自分自身、なのかもしれない。

歯みがき粉のチューブをしぼる朝にいるこんなもんだよ透明ってのは
八月にはたましいがかるくなります水彩絵の具のあおになります
夏がくるたびにあなたは虫たちを炭酸水のなかへ葬る
サイダーの瓶から音が漏れ出すと僕はすべてがたまらなくなる
毒瓶のねむり不思議ねお星さまがみな息絶えているんだなんて
缶切りのための音楽 天気雨そそぐ湖底に腐っていく靴

  この歌集には、「透明」を希求する歌が多い。上記の歌に出てくる水彩絵の具、炭酸水、瓶、天気雨なども「透明」性を表すアイテムだと私は読んだ。先に挙げた歌たちと同様、美しさと死、やさしさと暴力が同居する世界観が通底している。
  その中で、もっとも象徴的なのは、最初に挙げた一首だと思う。

気がくるうことはひかりを閉じ込めた氷に微笑みかけること 神さま

  氷にはひかりが閉じこめられている。そう言われると、その通りだと、私は思う。透明なものが透明なものに閉じ込められる。普段目にすることができないひかりは、その時だけは形を伴って、私たちはひかりを目にすることができる。この瞬間に私たちが目にするものは、ひかり、とうより、死んでいるひかり、ひかりの死体だと思う。そしてこの氷もやがて溶けていき、この世界から姿を消す。わたしは思わず微笑んでしまう。何に?この世界に。自分が狂ってしまった時に、そのことを自覚することは可能なのだろうか?可能だとして、そのことを自覚したいと私は望むだろうか。神さま、と小さく呼びかけてみたくなる。
 それでもこの小さな微笑みには、一瞬の世界への肯定があるように私は感じる。

歯みがき粉のチューブをしぼる朝にいるこんなもんだよ透明ってのは

 この歌には、はっきりと「透明」という語が出てくる。今までに挙げた他の歌と比べて、この歌には暴力的な語彙が少なく、一首が日常性の中に収まっている歌だと思う(「しぼる」という言葉があり、そこで一瞬、暴力的なものに足がつきかけて、「朝にいる」と意識が客観的に切り替わること、「こんなもんだよ」と大らかな調べの下の句に展開することで、すぐに日常の世界に連れ戻される感じを受ける)。
 この歌集の中で、「透明」はたびたび「死」を表している。しかし、この一首の中では、「透明」は「生活」といった言葉に置き換え得るように感じる。毎日毎日、同じことを繰り返す。歯みがき粉のチューブをしぼり続ける。生活は、人を「透明」にする。このあたりには、若者の感性、を感じる。しかし、その感受性をユーモラスに戯画的に描く知性がある。

獅子座流星群さがしてぼくは書くやさしい風邪のひき方入門
川の中の石を思うとしんとした音楽が耳の中にみちていく
手垢のついた古雑誌から夏が来た サイダーを飲む哲学者
昔、ある画家は遠くへいきたいと願った 妻と野良犬と星
バスタブにためたお水がきらきらと私の不安のようにあふれる
妹は嘘を生きてるそらをとぶ小さな鳥を雪と呼ぶ日も

  「透明」への希求は、見えないものを見つめようとする、この世界に美しいものを見い出そうとする姿勢の現れでもある。これらの歌の中では、その感受性が肯定的なバランスを保って表れているように思う。私はこれらの歌が、特に好きである。

つたえるよどんな時にも次の手をなんでアナタが泡になるかも
ぼくが言おうぼくの言葉は放たれた切り傷である八月の窓

  時々、このような気持ちの強い歌もあり、はっとさせられた。歌を詠むことは、いつも自分の中の世界を言葉にすることだった。言葉にすることは、いつも、切り傷を作ることだった。それでも背中を伸ばして、顔をあげる。そのような姿勢そのものから、これらの歌が生まれたのだと思う。

街灯にわたしの吊された死体、へいきよ百円のハンバーガーたち
 
 話は本筋から外れるが、この歌は、萩原朔太郎と穂村弘の世界観を足して二で割ったような歌で、ふふ、と思った歌だった。

 最後に、気持ちをまっすぐに言い過ぎて、秀歌ではないかもしれないが、作者の根源にあった思いがこの一首に表されているのではないか、と思う歌を挙げて終わりたい。

「なぜ」だけを知りたい俺は「なぜ」だけを切に問いたい見捨てるな、夏

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