ここより遠い場所―飯田彩乃歌集『リヴァーサイド』(2018年、本阿弥書店)を読んで

横たはるフローリングの冷たさよここより遠き異郷はなくて

異郷とは、いったい何だろうか、ということを数日ぼんやり考えている。

次の一連は、歌集の中にある連作である。

「風の途中」

かき上げる髪のひとすぢ一筋をひかりが奔る 古書店は春
イヤフォンのコードはつねに絡まつて祈りにも似たしぐさでほぐす
百円を伏せておくとき銀いろの水面に浮かんでくる桜花
蒸し鶏のバジルパスタがわたくしの前に来るまでの遥かな旅路
唇をぢかに拭へば飲食は星のごと手の甲に輝く
青年が吸いこむほどにプラスチックカップの底へしづむホイップ
左右の耳はことなる音を拾いつつどこに立つても風の途中だ
川沿ひのひかりの中で手から手にペットボトルの光を渡す

  一首目、あざやかに晴れ渡った一日なのだろう。長い冬が和らいで、お散歩日和の休日。駅前の小さな古書店で立ち止まる。入口の辺りにある一冊百円均一の棚などを眺めたりする。髪をかき上げるのは、自分ではなく、一緒に並んでいる誰かだと思う。その髪がひかりの中でさらさらと揺れる。店内はきっと薄暗い。だからこそ、埃が舞っていることや、外からひかりが差し込むことを感知できるのだ。私たちは季節の移り変わりをいろんな方法で感知する。気温や天候。花が咲いたり散ったり、虫の鳴き声を聞いたり聞かなくなったり。花粉症になったり、やたらと眠くなったり。隣の子がマフラーをしてきたり、ひとりだけ冬服で登校したり。当たり前に過ごしているけれど、どんな風に季節の移ろいを感じるかは千差万別、人それぞれだ。夏であろうが冬であろうが、何の興味もない、という人もいるだろう。私にとって冬の終わりの一日が、あなたにとっては春の始まりの一日ということもあるだろう。季節が変わるとき、光はその質を変える。春が来たのだ、と光は静かに教えてくれる。そういう風にこの世界が見える、と、この歌は言っているように思う。二首目、日常によくある場面。イヤフォンを鞄から出すのは、朝の通勤時や、これから何か行動をしようとしている時が多いと思う。それなのにイヤフォンが絡まっていて、しばし立ち止まることになる。イヤフォンは不思議といつも絡まっている。だから私たちはいつも立ち止まってしまう。「祈りにも似たしぐさ」は心情というより、外側から見た様子の話である。三首目、百円玉が銀色であることや、百円玉に桜花が描かれていることは誰でもが把握できる現実であり、事実である。しかし、それを伏せて置くときに、そこに水面を感知することは作者固有の認知である。四首目、「旅」という言葉がここで出てくる。「異境とは何か」という問いは、「この人にとって旅とは何か」という問いでもある。蒸し鳥のバジルパスタは、駅前の定食屋では食べられない。家でも出ない。でも、ちょっと街へ出て、ちょっと今どきのカフェに入れば普通に食べられる、そういうメニューだ。実際に遥か遠くにあるものを思い描くのではない、いまここにあるものとの間に遙かな距離を発生させる、そういう精神性がある。五首目、そのバジルパスタのオイルが口元や手をぬらっと光らせる。飲食/星という言葉の組み合わせには、単に美しい見立てというだけではなく、その裏の飲み食いの生々しさ、薄暗さまでが見通されている。六首目、一連の中で一番さりげない歌だ。ホイップ/底へしづむという組み合わせも五首目と同様、陰影のあるイメージを作り出している。七首目、この歌集には、何かと何かを隔てるもの、分けるもの、それを見つけてしまうものへの視線、が繰り返し登場する。左右の耳が聞く音が異なることを見つけてしまった時、立っている場所がかすかに揺らぐ。八首目、人は、光の中に光を見ることはできない。影の濃さの中に、光を見つける。晴れた川辺で手渡したペットボトルは光を受けて、その影を地面に落しただろう。しかしこの一連に通低する光は、単に光と影の二項対立というだけではなく、光そのものが薄暗さを纏っているように感じる。何かこの、光を求める心の手つき、が纏っている薄暗さ、を感じるのだ。

続いて、その次の連作である。

「違ふ星」

くびすぢを明るい星にさらしては未来のことを話したりする
父君は、母君はと問はれるときにわたしを溢れてしまふ王国
きみの背を追つて素足で降り立てば婚とは露にむせぶ原野か
乗り捨てた小舟のやうな明るさのひとりの部屋をけふは出てゆく
これは違ふ星の重力 歪みつつゆるく何度も指を繋いで
この街をやがてちひさく折りたたみ胸に仕舞つてこの街を出る
触れてゆくそばから指が泡になる君はどこにもゐない人だな
みづからの光のなかに消えてゆく夏の夜明けの散水車たち

  ペットボトルを渡した相手だろうか、結婚が決まって、相手の両親のところへ挨拶に行ったり、未来の話をしたり、引っ越しをしたりする展開が一連の中にある。星、王国、原野と遠く遥かなるものたちが登場する。しかし、前の連作と同じように、それらのものは実際に遠くにあるものではない。この人のすぐ近くにある光、故郷の記憶、自分の部屋、これから結婚する相手のことをそのような遠さで思っているのである。今目の前にあるものを、とても遠くに感じてしまう。その精神がここにもある。

乗り捨てた小舟のやうな明るさのひとりの部屋をけふは出てゆく

  とても好きな一首だ。引っ越しの日、家具の無くなった部屋は、いつもより広く、いつもより明るく、こんな部屋だったっけ、という姿をしている。生活の痕跡はもうない。しかし、生活をしていた記憶はそこにある。川を小舟で行くような寄るべない生活。この「明るさ」は小舟のことであり、ひとりであること、でもあると思う。それを乗り捨てて、この先に進んでいく。さりげない口調の中に、その意思が見える。

 続けて連作をそのまま引いたのは、何か一首単位で歌を引いてしまうと、こぼれ落ちてしまうものがあるように感じ、歌を選ぶことができなかったからだ。
  この歌集に出てくる「異境」とは何なのだろうか、と考えている。この場所に居場所はないな、と感じる感覚は私にとってはなじみ深いものだ。この場所は自分の居場所ではないな、と考える気持ちも、ここではないどこかに、本当の自分の居場所はあるのではないかと思う気持ちも想像できるものだ(ここで私が想像しているのは、自分自身の気持ちであって、それが他の人と同じものかは分かりませんが)。ここではないどこか、という場所はたぶん多くの人の胸に、ほとんどの人の胸にひっそりとあるのだ。いつ、それは生まれたのだろうか。どこに、それはあるのだろうか。いったいどれだけの人がその場所に辿りつけるのだろうか。
  その気持ちは、短歌を作る上での原資である。しかし、「ここではないどこか」の在り方やその場所との距離は人によって千差万別である。「ここではないどこか」という世界を打ち消すために短歌を作る人もいる。どちらにしろ言えることは、その人それぞれの、その気持ちの在り方は、その人の短歌の形と深く結びついているようだ、ということである。「ここではないどこか」は、「ここ」にしか存在しない。「ここ」は「ここではないどこか」にしか存在しない。その人が形作る「ここではないどこか」がどのような姿をしているか、ということは影絵のようにその人にとっての「ここ」を映し出す。
  現在の場所への違和感から、何か違う世界を希求する、という気持ちなら私はすぐに理解できる。しかし、飯田さんが求めるものは、それとは違う何かなのだと思う。疎外感を抱えた自意識、ではなく、ひとつの節度ある態度、のようなもの。それが何なのか、できれば言語化したいと思う。
  「ここではないどこか」を自分が探していた場所なんだと気づくためには、基準となる原始的な「ここ」という感覚が必要だ。「ここ」があったから、今いる場所が「ここ」じゃないと思えるのだし、いつかまたどこかを「ここ」と呼ぶ日がくるのだと思う。その原始的「ここ」が何か定まった基準ではなく、流れる川のようなものであった時、「ここ」と「ここではないどこか」は混ざり合い、均一的なものとして立ち現れ続ける。短歌の話に寄せると、この作者の、世界を美しい詩語で解釈するというスタンスと短歌の中に世界を書きとめようとする願いは、重なりあって同じ丈のものとして一首の中に立ちあがり続ける。また、一首一首の歌を取ることができず、何か連作の中にある均衡、の方に意味を見出してしまいたくなるのも、この「丈」に関係があるように感じている。

幼いころから、生活のそばにはいつも川がありました。
美しくも雄大でもなく、まるで暮らしそのもののように静かに、時にどうどうと音を立てて流れる川を横目にしながら考えたことの、ほとんどは忘れてしまいました。
(後略)

                          あとがきより抜粋

 その川を「美しくも雄大でもなく」と言い切れる姿勢に、単純に胸が打たれた。美しくも雄大でもない、と言い切ることが、いとおしむことそのものであることもあると思う。
 短歌を作ることはその人なりに世界を解釈する作業だ。世界を自分の言語で解釈しつづける営みは、生きる姿勢であると思う。ここより遠い異境はない、と言うことは、この場所で生きていくという矜持でもあるだろう。 
何よりも遠い、そしてたったひとつのこの世界に、美しい解釈の粒を並べながら生きていくこと。そのような姿勢を、私は美しいと思った。

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