三国志を現代に当てはめたらこうなる・魏

 まず、三国志について簡単な説明を。3世紀の中国を舞台にした、後漢の後の分裂抗争の時代。この後一時期を除いてずっと分裂が続きます。

 で、黄巾の乱という大反乱がおこった後に台頭したのが曹操。曹操は現代でも非常に優秀な起業家になったであろうことは間違いないと思います。それはなぜかといえば、非常に合理性に富んだもので、固定概念にとらわれないのが強みだから。実際、彼の配下はほかの陣営から集めた人物たち。この点は人縁という個人同士の紐帯によって能力を引き出そうという蜀・劉備とは対照的とは言えます。

 まず、曹操は元手に恵まれているのはあまり知られてないかもしれない。実のところ、後漢において財を成した人物の係累でしたが代々の名門ではなかったため、いわば新興貴族みたいなもの。よってやっかみも手伝ってかなり当時批判された。

 実際、曹操の背景を激しく非難した文書を廻され、記章した人物にも

俺のことはいいが、先祖のことをあそこまで書かなくてもいいじゃんか

といった感じで苦言を呈しています。餅ロン、罰を与えずに召し抱えてますが。

 曹操の組織の特質は前述の通り合理性に富んだものなのでいわゆる

信賞必罰

を徹底。これは歴史書にもわざわざ書かれているもので、才能を認められて爵位という評価を得た人物も多い。ライバルの呉の孫権の人材構成だと、こうした抜擢というよりも、現地の有力豪族から優秀だとか評価の高い者を取りてる、という形が目立ちます。

 こういう点は現代にも通じる点で、要するに呉の場合

地元で創業し、その地で力を持つ人たちの内部に取り込みつつ拡大

という感じなんでしょうね。今であるなら、どこそこの有力者の息子を会社に採用し、親から便宜を図ってもらう、といった感じ。

 その点、曹操はそういう形よりも配属先での結果によって評価するスタイル。結果できちんと判定してくれるため、部下も結果を出そうとする。結果を出すための人材配置や採用、という部分において人事のプロといえる

荀彧

がいたため、組織運営としても時間がたてばたつほど安定を手にしながら拡大していく。こういった戦略性もはらみながら拡大していったのです。

 曹操が三国で最大勢力になったのは、やはり人材の登用が大きかったといえます。選り好みせず、才能重視で…というのは法令ですら出してますし。才能による成果の最大化、という事を知っていたんでしょう。でもこれ、1800年程前の話ですからね。今でも通用する、というすごみはなかなか伝わらないかもしれませんが、相当すごいことだと分ります。

 それだけに、人材によって結果を出してきた曹操だからこそ、

郭嘉の死

は痛かったんでしょう。自分にないものを求められる曹操だからこそ、それをもたらしてくれていた郭嘉がいなくなってしまったのを。赤壁で彼が生きていたら、ああいう負け方は確かにしなかったかもしれませんね。

 そんな曹操も亡くなりますが、その際にも遺言は彼らしいもの。冠婚葬祭は手厚くするな、全員葬儀が終わったら持ち場にさっさと戻れ、などなど・・・。要するにあくまで先の展開を見据えていたんでしょうね。こういう点も、盛大な葬儀によって死を飾りたがる人達と一線画しています。

 自分が子供のころは劉備と…と思っていましたが、大人になったら

曹操のところで働きてーわ(笑)

となったのも、こういう合理性こそがむしろ万人に平等である、とわかったからでした。それがこれだけはるか昔の人と分かれば、尊敬の念がその分高まります。

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