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菜食生活から肉食生活に移行して気付いたこと

 串焼きから豚の丸焼き、鶏肉のオーブン焼き、肉食生活が続く今日この頃。菜食生活をおくるマイルドヒッピーの家から、居候先が変わったことで、体には割と正直な変化が現れ、気付かされたことも多かった。野菜か肉かといったことにとどまらない生活の魅力も紹介しよう。

命に手をかける

 「ブヒブヒ、フゴっ、ブヒィイ!」。この前来たときには、ほとんど吐瀉物に見える人間の食べ残しに鼻ごと口を突っ込んで、興奮しながら胃を満たしていた豚が、まんまと半分になっていた。屠殺するときは、斧で頭部を殴打して、痙攣しているところを首元にナイフを差し込み血抜きするらしい。すでにニンニクの効いたタレに浸けられていた同部と足部を、鉄製の大串にさして、クルクル回しながら焼いていく。1時間半じっくり焼くんだ、爺さんがいった。

 この惨状をマイルドヒッピーが聞いたなら、卒倒しないまでも「醜悪な食文化だわ」とでも言いたげな非常に悲しい顔をするに違いない。でも、もし過激な菜食主義者が「命の尊重」を錦の御旗に掲げてお肉大好き人間を批判したなら、マスクに箒で不殺生を貫かんとするジャイナ教でもない限り、「蚊に刺されたら、叩かないのか」とか「植物は命じゃないのか」とか極端な話になりかねない。まぁこれはネットメディアに犯されたぼくの脳内の極端な思考であって、わざわざ両者が膝を突き合わせる必要は全くなく、「思想や習慣の違いだよね」という結論にいつも落ち着く。もっといえば、この対立構造自体、ぼくの実生活の中には存在していない。

 多くの菜食主義者と話したことはないけれど、ぼくが1週間ほど生活を共にしたチリ人のトリニダは、ヴィーガンまではいかないがベジタリアンだった。彼女は自身の健康というよりも、思想としてそれを実践しているようだった。そう思ったのは、彼女が産地によっては大豆も食べるのを避けているからだった。彼女の実践は非常に感情的なもので、ビジュアル的に命の躍動感があると、植物が枯れたときとは感受がことなるんだろうなと思う。まぁ彼女は枯れかけた植物を甲斐甲斐しく世話していたから、そんなこともないのかも知れないけど。

 感情的に何かを始めることは、全く悪いことではない。さらに結果として彼女の暮らしはぼくより清貧で、自分の把握できる世界の中で持続可能性の高い暮らしを実現していた。日本橋の小さな新聞社に勤め、昼飯はコンビニ、夜もコンビニ、週末は必要以上に酒を飲み、飯を食らい、どこから来たかも知れないカロリーで頭も体も満たされて、ブワーっと膨張する幸福感を感じていた僕よりは。

 一方、ブタを串刺しにして火で炙るお肉大好き爺さんは、命に手をかけている。先日は29頭子ブタが生まれたと、大喜び。おそらく爺さんは、ベジタリアンのトリニダよりも、安く買い叩かれて精肉済みのブラジル産若鶏を積極的に購買するぼくよりも、命のそばにいる。ブタの全てを愛してる。罪の意識とか、可哀想だとか、そういう感情はない気がする。命に触れている爺さんは土臭く、やはり自然との距離も近いように感じる。家畜であったとしても命に手をかけるということは、自然との対話でもある。それは植物であっても変わらず、整地し、育て収穫するという農業は、自然への接近であると思う。

うんこの変化

 思いのほか長々書いてしまったので、ここからはサクサクと気付いた変化を綴っていこう。

 真っ先に変化を実感したのは、うんこだった。とにかく出が悪い。「そろそろ出きったな」と思っておケツを拭いたあとに、再度もよおしたりするもんだから、紙ももったいない。そして、とても臭い。当然、屁も臭い。はやグソだけが取り柄だったぼくは、その唯一の取り柄を失い、正直うんこの変化だけで「肉はしばらくいいかな」と思うくらい、菜食生活とのギャップがあった。

胃の変化

 下半身から始まった肉食生活の影響は、その範囲を胃にも広げてきた。肉食生活が2日目に突入すると、もたれるまではいかないが、胃が疲れる。ここでいう肉食生活は、完全に肉だけというわけではないが割合でいうと圧倒的に肉が多く、朝はハムとチーズとパンだけど、昼にバーベキューをして、夜は焼肉、みたいなそんな生活を想像してもらえたらいい。

 もっとも、この胃に関しては、「食べなさい、食べなさい」といってくる婆ちゃんがやはりチリにもいて、「ごちそうさま」といえば「あの若いのは、まだ食べれるのに遠慮してるんだ。おい娘や、肉を持ってこい」というお決まり展開のせいでもあるし、今週は独立記念日やら何やらで肉消費量が増えているせいでもある。

酒の変化

 酒は肉料理の方が圧倒的に進む。野菜も調理方法によってはすばらしい酒のあてになるのかもしれないが、肉の脂の旨味や塩気はビールと最高に合う。これは行動の繰り返しによって、個人的に脳内で生み出された快楽の方程式なのかもしれない。

 昨日は若者だけで村のクラブに行った。そこでフライドポテトに炒めた豚肉をのせて、刻んだトマトとチーズをぶっかける大雑把な料理を注文した。やはり何となく、「そろそろ肉は飽きたな」と思っていたにも関わらず肉に手が伸び、酒で流したくなる。これはもう、重症だ。トリニダとの菜食生活では、酒はどちらかといえば仕事を終えたあとや、巨大な家具を作り終えたあとの、ご褒美として機能していた。

肉も野菜もコンパクトがいい

 肉は飽きるのが早かった。野菜は種類が豊富で、チリはジャガイモだけで何十種類もある。肉は部位の違いこそあれ、チリ人による調理方法は限られている。中でも繰り返し「Asado(アサド)」と呼ばれる、いうなればバーベキューが続くので、付け合わせのサラダの美味しさが、肉を数倍上回り始めた。

 トリニダとの菜食生活は、とにかく健やかだった。トリニダの作る野菜のスープは、確かに塩味も薄く、味気ないと思う人もいるかもしれない。けれど、食習慣そのものがコンパクトな彼女の暮らしぶりに馴染んでいた。ただ、ぼくがベジタリアンになりたいと思うかというと、そうではないし、やっぱり肉はうまい。野菜も肉も魚も大好き。

 トリニダは極力自分で把握できる範囲で、地産地消の世界で暮らし、爺さんもまた自分で育てたかわいいブタを焼いて食べるというフルトレーサビリティの中での暮らしている。暮らしのコンパクトさに健全性と魅力を感じる。でもこういう丁寧な暮らしには、時間がかかる。コンビニ飯を10分で食うサラリーマン記者をやっていたぼくに、真似できるだろうか。

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