目醒めー記憶喪失、歩行不能、嚥下障害を経て/SLE(全身性エリテマトーデス)という難病とともに生きる(5)

<1991年の冬>

 入院生活も落ち着き、母の献身的なサポートや明るい看護師たちのサポートのおかげで、徐々に元の明るさを取り戻していったが、やはり夜になり、一人で個室で寝ていると、自然と涙が出てきて目が覚める事もあった。
 とはいえ、中学3年生だった私には、進路という現実的な問題が目の前にあった。私は、元来負けず嫌いの性格であった為、家族に頼んで教科書や参考書を取り寄せて、毎日朝昼晩と勉強時間を決めて、きちんとルーチン化し、一応県内でもそれなりに上位クラスにあった県立高校に合格した。12月の中旬に入院し、恐らく2ヶ月ぐらいの期間で、それまで学校に行けていなかった部分から自学自習し、この目標を達成したのだが、この時のモチベーションとなったものは、やはり"自分の元居た位置に戻りたい"、"病気したからって、諦めたくない"、"そもそも病気を理由にレベルを下げたくない"、そう言った自尊心からきていた。私が育った年代は、まだ偏差値教育の要素も強かったため、余計に成績や順位にこだわった所もあっただろう。
 この時に、自らを律することで成果を上げられた事は、成功体験となり、私が自分のマネージメント能力に自信を持つきっかけともなったと言える。

 大きな壁を乗り越えた私は、退院が許されるまでの間を病院でのんびりと過ごしていた訳だが、この時に感じた周囲の人の優しさや愛、それも私にとって、とても大きな財産となった。
 既に体調がかなり良くなり、ステロイドの量が徐々に減って面会が許されるようになってからは、毎日のように学校の友人たちが見舞いに来てくれた。その中には、本当に毎日のように学校が終わった後や、週末の面会時間前の早朝から忍び込んで来てくれる様な友達もいて、20年以上経った数年前に初めて判明した事だが、この友人は、私の事を案じて、周囲の反対も押し切って私と同じ志望校に変更していたのだという。当時、私はそんな事に気付く訳もなかったのだが、残念ながら彼は私と同じ高校には行けなかった。その彼とは26年が経った今でも悪友として交流を続け、ビジネスの分野でも刺激をもらうなどしている。

 こうして友人たちと病室で談笑していたある日、私が兄に作ってもらって聞いていたハードロックのミックステープの話から、友人の一人が、ベースギターを始めたという話をしてくれた。それまで素潜りやスキー同様に、サッカーやテニス、ソフトボールとスポーツを中心に楽しんできた私は、高校に行っても何もやることないなと思って、「俺もギターでもやってみようかな」そんな事をポロッと呟いた。
 数日後、大事件が起きた。何と母が、病室にエレキギターを抱えて入ってきたのだ。私が友人たちに呟いた一言を聞き逃さなかった母は、私の新たな楽しみにと、何と即座にエレキギターを買ってくれたのだった。私に何か希望を、人生を明るくするための何かを、そう考えて行動してくれた母の愛情には、私も親になってから尚一層に感じ入るようになったものである。

 さて、こうして多くの愛に支えられて困難を一時乗り越えた私だが、一方でこの一連の経験は、私に愛や思いやりの大切さを教えてくれるのと同時に、極端な善悪意識のようなものを植え付けるようになったとも言える。
 この病気になった事で、私は普通の人とは違う、ある一線を越えたような感覚を持った。紫外線の事や激しい運動など、目の事など、普通の人とは同じように出来ない、自ら自分は皆とは違ってしまったんだ、ある種の被害妄想と言えるのかもしれないが、そんな心理状態にならざるを得なかった。それも当然仕方ない事で、私は、実際、14歳にして死や生について本当に身近なものと感じ、母がある日私に、自分のせいでこんな目に合わせて申し訳ないといった風な言葉を伝えてきた事があったが、私は、輪廻転生が本当にあるならば、私が死んでも、また新たな命が生まれて、それはある意味、新しい私の存在がこの世に現れるという事で、不幸な事ばかりではないという話をしたのだ。
 こうした事から、私は、それでも同じように接してくれる仲間、味方、身内、と、その他大勢への共感意識を極端に分けるようになった。自分の苦労に比べて、自らの責任で、自力で努力しない(と私が勝手に思っていた)その他大勢の他人に対して、共感することが難しくなった。今でこそ人それぞれ、立場や状況で色々な事情があって、その人の今があることは分かっているが、実はこの極端な「善い」、「悪い」を厳しく白黒つけたがる性質は、この手記の本題である再燃が起きるまで、ずっと続いていたと言える。

〜次章〜謳歌した青春時代


 

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