目醒めー記憶喪失、歩行不能、嚥下障害を経て/SLE(全身性エリテマトーデス)という難病とともに生きる(12)

<2017年12月>

 一通りの情報共有を終えて、主治医が退出すると、担当看護師から入院に関するレクチャーが行われた。その時点で私の鼻には、既に栄養を胃に流し込む為の管が通されていて、看護師は、万が一私が管を抜いてしまわない様に、私にミトンの手袋をするかどうか考え中だと説明した。通常、意識のハッキリしている状態か、逆に完全に寝ている状態であれば、まさか生命線の管を抜く様な事はする筈も無いのだが、この時の私の状態であれば有り得たのだ。事実、後に私がこの目で見る事となった入院診療計画書には、この様に書かれていた。

 “意識障害があり、日常生活全般に介助が必要です。

“認知機能について注意が必要です。症状によって検査や観察を行います”

 更に、動き過ぎて危ない場合は、拘束ベルトをしなければならない事についても、看護師の口から伝えられた。これについても、<身体拘束に関する説明・同意文書>には、この様な事が書かれていた。

“意識障害や興奮状態がある場合は、止むを得ず身体拘束を実施する事がある”

“体幹を安全帯などで拘束する”

“四肢を安全帯で拘束する”

“手指の機能を制限するミトン手袋などを使用する”

 私は、この会話を聞いて、書類を見て、愕然とした。本当にこれが俺の事だったのか?と。

 そして、この先は、雑音が非常に多くなり、嘘の様で本当の、ドラマの様な展開が続いていた。そう、私の妻は録音を解除しないまま、スマホをポケットか何かに入れていたのだろう。

 看護師が、挨拶をして部屋を出ると、妻や家族が皆、私に語りかけた。

 「たけし、、、、」

 そう語りかける妻の声は鼻声で、目を泣き腫らした妻の顔が目に浮かんで、胸が締め付けられた。

 「たけし、綺麗な景色、眺めも良い」

 「すごく良い病院だよ」

 「すごくテキパキした良い先生」

 口々に、家族が私に声をかけた。

 私が言葉を発せられずに、恐らく自由のきかない手指を何とか動かそうとしているのを見て、家族が、どうした?あれしたいのかな?あーこれかな?と、まるで赤ん坊に語りかけるように、私の動作を見守っている様子が窺えた。

 そして、妻が、安全の為に私の結婚指輪を取り、その指輪が、私の知人にオーダーして作ったこだわりの品だという話が語られた。私は何度かその指輪を取り返そうとしていた様だった。

 少しして、看護師がまた作業をする為に部屋に戻り、私について就職して上京したのかと聞いてきた。母が、私たち家族の経緯を話し、私が次男でありながら、家族をつなぎ、まとめる役だったと話すと、看護師は、「真ん中って自由なイメージだけどそうでもないんですね」と返して、皆で談笑するシーンがあった。
 その時の母の声のトーンには、ただ和むという心持ちだけではなく、そこには、過去の思い出を振り返るような一抹の寂しさが感じられた。

 後に聞いた話だが、その後、皆でラウンジに遅い昼食を取りに行ったそうだ。しかし、妻は、手を伸ばす事が出来なかったという。ただ項垂れて、肩を震わせ、嗚咽を堪えるしかなかった情景を想像して、また涙が溢れて来た。

 「早く病院に行かせてればね、、、熱が中々下がらないって言ってたのに。きつく言ってでも・・・」

 母が口を開いた。

 「子供からもしょっちゅう風邪うつったり、そうゆうのもダメージとして蓄積したのかもねぇ」

 義母が、そう続けた。

 「でも、ジッとして生きてられる訳じゃないしさ」

 合理主義的でポジティブ思考の父が、軌道修正した。

 「この病気はジッと家に閉じこもって生きるか、人生を謳歌するかだって先生が言ってた」

 そう、義母が再び呟いた。

 「◯◯ちゃん(妻)のおかげで結婚出来て、子供も二人恵まれて。たけしは幸せだよ。やりたい事は全部やってきたよ」

 と、再び私の父が言うと、義父も同調する様に続けた。

 「うん、私もそう思います。たけしくんは常に自分らしく生きてきた」

 「また一歩一歩。ゆっくり歩いていくしかないよね」

 穏やかに語る、私の母のいつもの通りの言葉には、きっと皆が頷いたことだろう。それは、ある種の諦観と言えなくもなかったのだろうが、決して希望を捨てたと言う訳ではなく、いま目の前にある事実にしっかりと向き合い、高望みせずに為すべきことを為していく、そういう覚悟であったのだろう。

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