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【大学入試#06】「寿永二年の十月宣旨(1183)」が頼朝勝利への号砲

この世の春を謳歌した平家も、貴族的権力構造としたことで、天皇側からも武士側からも不満の声が聞こえるようになりました。あれだけの権勢を誇った平家の一番の誤算は、清盛が途中で死去してしまったことだったでしょう。たった5年で源氏に政権をひっくり返されてしまいます。

(超高速解説)
以仁王の令旨(1180)によって源氏挙兵。頼朝は侍所を設置、初代別当は和田義盛。清盛は無念の死去。「寿永二年の十月宣旨(1183)」で事実上の東国支配権獲得。壇ノ浦(1185)で平氏滅亡。全国に地頭を置き、後白河死去後、征夷大将軍に。


<<穴埋め演習>>
以仁王の令旨(①)によって源氏挙兵。頼朝は②を設置、初代③は④。清盛は無念の死去。「⑤(⑥)」で事実上の東国支配権獲得。壇ノ浦(⑦)で平氏滅亡。全国に⑧を置き、後白河死去後、征夷大将軍に。

「穴埋め演習解答」
①1180
②侍所
③別当
④和田義盛
⑤寿永二年の十月宣旨
⑥1183
⑦1185
⑧地頭

侍所は和田義盛が初代別当。さらに、公文所(のちの政所)は大江広元が別当問注所は三善康信が執事を務めたことまで押さえれば完璧。

大学入試問題にチャレンジ!

(問題1)
1183年10月に、朝廷は源頼朝に東海道・東山道の支配権を委ねる命令を発した。頼朝の東国支配を公認した、この命令書の呼称を記しなさい。
(学習院大学 2017年度)
(問題2)
次の文章の正誤を答えよ。

鎌倉幕府の政所の初代別当には三善康信が、問注所の初代執事には大江広元が就いたが、両名は源頼朝が京都から招いた貴族であった。
(関西学院大学 2017年度)

正解は問題①は「寿永二年の十月宣旨」。問題②は「」です。政所の初代別当は大江広元、問注所の初代執事が三善康信ですね。

次回予告
有力御家人の主導権争いは北条家が完全勝利

鎌倉幕府がいつスタートしたかは諸説あります。かつては頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年が主流でした。現在は壇ノ浦で平家を滅ぼし、地頭を全国に配置した1185年が主流となっています。しかし、学者によっては、東国支配が公認された1183年をもって鎌倉幕府スタートとする考えもあります。(二)

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