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「院政」開始で天皇家の権力頂点に達するも武士の活躍を許す結果に(超高速日本史#04)

後三条天皇が藤原摂関家に遠慮せず、摂関家や寺社の荘園を整理する「延久の荘園整理令」を出したことで、天皇家が俄然勢いを増してきます。その流れをさらに増したのが子の白河天皇。150年ほど続く院政を編み出しました。権勢の維持のため、武士の力も借りたことで武士が台頭することにもつながった時期を見ていきます。

(超高速解説)
後三条の後、白河天皇が即位。堀河天皇に譲り上皇となり院政開始(1086)。 鳥羽 - 崇徳 - 後白河と続く。崇徳上皇と後白河天皇の兄弟喧嘩、保元の乱(1156)で後白河側が勝利。その後、勝利をもたらした平清盛と源義朝の直接対決、平治の乱(1160)で清盛勝利、平家全盛へ。
(歴史単語の読み方)
崇徳(すとく)
保元の乱(ほうげんのらん)
平治の乱(へいじのらん)
<<穴埋め演習>>
後三条の後、①天皇が即位。②天皇に譲り上皇となり院政開始(③)。 鳥羽 - ④ - ⑤と続く。④上皇と⑤天皇の兄弟喧嘩、⑥の乱(⑦)で⑤側が勝利。その後、勝利をもたらした平清盛と源義朝の直接対決、⑧の乱(⑨)で清盛勝利、平家全盛へ。
穴埋め演習解答
①白河
②堀河
③1086
④崇徳
⑤後白河
⑥保元
⑦1156
⑧平治
⑨1160

入試では、白河天皇が誰に譲位したのか(堀河天皇)、院政を開始したのは何年か(1086年)などが問われます。他にはこういう知識も問われます。具体的に早稲田大を見てみましょう。

平治の乱についての正しい説明はどれか。
ア. 左大臣藤原頼長と関白藤原忠通が対立した。
イ. 平忠常と源頼信が対立した。
ウ. 乱の結果、崇徳上皇は讃岐に流された。
エ. 乱の結果、源義経は伊豆に流された。
オ. 乱の結果、藤原信頼は滅ぼされた。
                      (早稲田大学 2017年度)

正解は、「オ. 乱の結果、藤原信頼は滅ぼされた」。源義朝v.s.平清盛だけでなく、誰が味方したかまで問うところがさすが早稲田。なお、「ア. 左大臣藤原頼長と関白藤原忠通が対立した」、「ウ. 乱の結果、崇徳上皇は讃岐に流された」は保元の乱。「イ. 平忠常と源頼信が対立した」は平忠常の乱(1028)。

次回予告
平清盛が作り上げた貴族的権力構造

次回は平治の乱(1160)で勝利した平清盛がこの世の春を謳歌した時代です。清盛は、武士で初めての太政大臣になり、日宋貿易を拡大させ、巨万の富を築き、武家が主役の舞台に躍り出た最初の人物。しかし、「奢れるものは久しからず」との言葉通り、源頼朝の叛逆を受けることになるのです。

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