ひとりごと

十三年前の今日は忙しかったね。
繁忙期のケツを迎えていて、朝から出荷を待つトラックでバースがパンパンだった。

リストを持ってこんなの終わる訳ねぇだろと思いながら倉庫を歩いてたらセンター長に声をかけられた。

「おい、段積みになってる商品下ろした方がええと思うわ」

ただでえさ出荷のパレットで隙間がなくなりそうなのに、コイツ何言ってんだと俺は思ったよ。

「下ろすっていっても、場所ないっすよ」
「なんかなぁ、地震来る気がすんねん」
「エスパーっすか?」
「いや、マジやで。リフトマンに言って下させてや」

いつも冗談を言い合う仲だったけど、その午後に本当に地震が来た。

庫内に取り残された人は居ないか、主任と二人で倉庫に飛び込んで行ったけど正直怖かった。
あんな巨大な倉庫が紙相撲の上みたいに簡単に揺れて、これは死ぬかもしれないと思ってた。

取り残された人もおらず、みんな無事だった。
けれど夕方に出したトラックが片道一時間半で着くはずの納入先に着いたのは、深夜の一時を回っていた頃だった。

その間に、女川にいた叔母が亡くなっていた。

去年親父が死んで、四十九日は宮城の栗原で行った。
その時の話しも出た。
叔母は財布を取りに戻った自宅の中で津波に飲まれて亡くなった。
叔父は屋根に登ってアンテナに掴まり、引き潮で沖に流されてから再び街に流されて生き延びた。
足元で妻が亡くなってるとは夢にも思っていなかったって。

叔母の遺骨を引き取りに行って欲しいと、避難所から連絡をもらった。
ガタガタの東北道。災害救助のトラックや、夜間工事の光はあちこちで車内へ差し込んだ。
あの時にハンドルを握っていたのは親父だったけれど、昨年の秋は親父の遺骨を乗せた車のハンドルを俺が握っていた。

眠くなりそうなほど綺麗に補修された道路。
道程は首や肩が壊れるんじゃないかと思うくらい長かった。

それでもなんとかたどり着いて、帰りたいといつか言っていた故郷に骨を還すことが出来た。

帰りの景色は何処までも暗闇が続いていた。
陸も山も海も、黒い夜に塗り潰されていた。
善悪の区別のない子供が黒いクレヨンを持ったかのように、生きることも死ぬことも一緒くたに黒く塗り潰されていた。

けれど、点在する灯りが遥か遠くに見えていた。
十三年前には完全に消えていた場所に、灯りがあった。

人がいるんだと感じて、それだけで少しだけ心強くなった。

きっと、忘れてしまうだろう。
どんな景色だったかも、どんな色だったかも、どんな感情だったかも。

これから先の自分の中で、忘れないものはなんだろう。
それはまた先の人生になってから、振り返るのだろう。

その時に何か思い出せるように、せめて足掻くことくらいはしたくて、ひとりごとを書いている。



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