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<本音・宜・吐露 & 弱音・宜・吐露>【四】 ~本音や弱音を宜しく程よく吐露します~

「またシンガポールと言うなかれ。この訪問は『親ガポール』に非ず、『新ガポール』なのである」

こうして何度もシンガポールに来ていて、それを記事にしていると、また行ったのと言われそうである。確かに我ながらかなりの頻度だとは思う。だから、どうせ旅行するなら別のところへ行けばいいのにと言う人たちの考えも分からなくはない。

私にとってこうしてシンガポールに足を運ぶのは、マンガを何度も読み返すのと同じ。不器用な私は色んなものを何度も繰り返して、ようやく理解できるタイプ。昔からそうだった。他の人は1回で理解したり、身につけたりできるものであっても、私の場合それは無理で、何事も人一倍時間がかかった。

シンガポールという国を理解するのも同様で、人一倍時間がかかっているのだと思う。だから何度も足を運ぶ。そうして懐かしい記憶を確認・復習する形で「反芻」していく。それでようやくシンガポールとしっかり結びつくことができる状態になる。

言うなれば「親ガポール」。

しかし「同じ懐かしさ」を見つめたり受け止めたりしているだけとは言い切れないんじゃないかとか、「懐かしい記憶の確認・復習」のためだけにシンガポールに来ているわけじゃないとかといった思いもある。

シンガポールを単に懐かしむのなら、過去の方を向くだけである。時間とともに薄れていき失われていく「自分とシンガポールとの繋がり」にしがみつく状態である。それでは訪れれば訪れるほど、懐かしさよりも寂しさが増幅してくだろう。

同じ経験は小学生の時。かつて小学校のとき引っ越した後、懐かしさを求めて何度も以前の町を訪れた。そうして友人たちにも会った。しかし友人の「また来たの」という言葉が胸に刺さった。私の中の懐かしい記憶の時間は止まっているが、友人たちや町の時間は進んでいる。行くたびに変わっていく友人たちの心境や町の様子は、繰り返すほどに寂しさを増幅させていた。

過去にこだわり、そちらを向いてしまって前に進めなくなる人。
それではいけないし、シンガポールにも失礼だ。
未来を意識し、そちらに顔を向けるから、前に進める人。

見たり感じたりする素材は過去を思い出しながらだが、私がシンガポールを訪れる意味の一つには、これからの考察に向けた前向きなリサーチがあるのだ。それは単に過去にしがみつくものではなく、「シンガポールと自分との新たな結びつき、または気づきの新局面」といった創造的活動になるはず。

言うなれば「新ガポール」。
決してノスタルジー旅行に終始するものではないのだ。

#つれづれ   #コラム

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