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<本音・宜・吐露 & 弱音・宜・吐露>【十一】 ~本音や弱音を宜しく程よく吐露します~

「助けを求めることが『弱い』か否かは別として、助けが求められるのはまちがいなく『強い』集団の証」

リードすることなどなかった人生。いつもその他大勢からのスタートだった。そこからどこまで離されずに頑張るか、必死だった人生だったじゃないか。そして何とか工夫して追いつこうと必死だった人生じゃないか。

それなのに、何をお高くとまろうとしているのだ。さも自分が整っている、準備万端である、先が読めている、流れが見えている、なんでそんなできる風で取り繕おうとしているんだ。そんなポジションだった経験も実績もないくせに、そんな振る舞いしたら上手くいかないのは当たり前。

足りてない、見えてない、読めていない、気づけてない、うまくない。実際はそんな状態の繰り返しだったじゃないか。それでも何とか時間を使い、工夫をし、試行錯誤によって進んできたのが現実の自分の姿だったじゃないか。それで上手く乗り切れたわけじゃなかったけれど、こうして何とか生きている。こうして何とか続いてる。

もちろんそれは独力じゃない。周りの多大なサポートのおかげ。保護者の温かい理解と協力のおかげ。生徒の優しさや頼もしき成長のおかげ。関わってくれた全ての他者のおかげ。

できる風に見せても、ほとんど得はない。小さなプライドを一瞬守れるだけ。そのためだけに、そんな振る舞いをして迷惑がかかるのは、たくさんの人たち。

ならば、できないことを開示せよ。助けを求めることは弱さじゃない。そんな風にはっきり言い切れるわけじゃないけれど、弱さを隠すために助けを求めないのは間違った方向に向かうこと。助けを求めるのは、集団で見たときのパフォーマンスを上げるための一つの工夫。弱さを隠したまま、何かが動いてなかったら、全体にとって残念な状態だし、周りからすると、助けを求めてもらえない関係性なんだなと感じる、そうなると仲間は仲間で結構悲しいかも。

「誰ができたのか」という「競争視点」でなく、「みんなでできたの関係性を作れたのか」という「協同視点」で考えよう。お互いに協同視点で弱さを見せ合えることができる集団は、お互いに競争視点で弱さを見せ合えない集団よりも、何倍も何十倍も「強い」集団になっているんじゃないだろうか。

【連続投稿:931日目】

#つれづれ   #コラム

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