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❖契約を暴力として使えるのはいつも社会で強い側❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年12月30日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を) 

◆契約を暴力として使えるのはいつも社会で強い側◆
最近、年末のテレビではドラマの再放送が多い。法学部出身だからだろうか、「99.9」や「イチケイのカラス」などの裁判をテーマにしたものを好んで見ている気がする。

こういうテーマにおいて、いつも考えてしまうことがある。それは、現代において「契約」というものが契約の当事者双方をしっかり守ってくれているのかという疑問である。

歴史的に「契約」というものの存在を保護しなければならない事情は確かにあった。個人の経済活動や自由競争を抑圧してきていた封建制度、絶対王政という社会構造に対して、市民は私的自治の原則(契約自由の原則)を必要だと考えるようになった。だからこの原則が、権利能力平等の原則、所有権絶対の原則と並んで、近代私法の三大原則とされる理由である。

19世紀にイギリスで活躍した法学者のヘンリー・ジェームス・サムナー・メインは著者『古代法』の中で、「進歩的な諸社会の推移はこれまでのところ、身分から契約への推移であった」と述べている。メインはこのように近代以前は固定化された身分がものをいう社会であったが、近代になると人権思想・平等・自由などの下、契約が社会を成り立たせると考えたわけである。

近代以降に整えられた契約の原則・観念の一つとして、「諾成契約」がある。諾成契約は、当事者同士の合意によって成立し効力が発生する契約のタイプである。諾成契約では必ずしも契約書を交わさなくてもよく、口頭でも成立するため不要式契約の一つである。不要式契約の典型は売買契約であり、明確に契約書を作成しないことで迅速な経済活動を後押ししてくれるというメリットがある。しかし契約内容が明文化されていないということは、権利義務関係が曖昧になりトラブルが生まれるというデメリットも当然にある。そのため、この権利義務関係の曖昧さを都合よく利用して意図的に相手方へ不利益を与える者が出てくる可能性も高まってしまう。

ドラマなどにおいても、諾成契約は口頭でも成り立つという部分が注目されやすいが、その中身にも目を向けなければいけない。本当に契約ならば、お互いの権利義務の範囲や内容が曖昧では、社会において相対的に弱い立場にある側が泣き寝入りの状態になるだけである。「諾成契約として口頭で成立しているから義務を果たすべき」とか「諾成契約として口頭で成立しているから権利は移譲されていて、そちらに権利はない」とかというのは、大抵、社会において相対的に強い立場にある側が他方の主張を封殺する際に振りかざされる論理になっている。「諾成契約で対価を支払ったから、もはや義務はない」これも強者の論理。また対価のやり取りが行われた後にも何らかの権利義務が継続するとすれば、それを明文化していないことで生じる不利益は、大抵、相対的に弱い立場にある側にふりかかる。諾成契約は契約を簡便に成立させることで、一般社会での経済活動を活性化させてくれるというポジティブな役割があるものの、その特徴は、自分の利益を最大化することだけを考え、相手方には不利益を与える都合の良い道具として濫用されてしまうというネガティブな役割もある。契約とか法律といったものが、強者をさらに強者ならしめ、弱者をさらに弱者ならしめるようであるならば、歴史的に積み上げてきた原則だとしても、見直しが必要だと思う。

今回の考察によって、契約というものは必ずしも契約書を必要としないこと、それによってトラブルが起こりやすいこと、また契約書がないことを都合よく利用するのは社会的に強い立場にある者が多いことなどが明らかになった。ここから、学問の一例として「法律学」など、仕事の一例として「弁護士や裁判官」などが連想される。契約や法律は、絶対的権力から弱者である市民を守ってくれていた歴史的な使命を是非とも思い出してほしいものである。私も現在の立場はフリーランスのようなものなので、都合のよい諾成契約に翻弄されないように注意していきたい。

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