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<本音・宜・吐露 & 弱音・宜・吐露>【十】 ~本音や弱音を宜しく程よく吐露します~

「『ガチャ』に頼る人は、『ガチ』を『嫌(イヤ)』がる『ガチィャ』かもしれない」

行動は本来選べるものだと思う。
選べないと思っているのは、実は自分だけで、
そうやって自分で天井とかカベといった限界を作って、
これ以上は進めないとか、これ以上は昇れないとか、
あたかも不可抗力のように決めつけている。

どこかで自分は不運だったり、不遇だったり、そんな設定にしている。
そうして、自らの意志で可能性をさらに高めようとしない「怠惰」な自分をすり替える。自分の可能性が自らの意志ではどうにもできない環境によって押さえつけられている。そう考えることで、「努力しない」ではなく「努力できない」なんだと正当化する。

流行りの言葉こそ使ってはいないが、思考の枠組みは同じ。
「ガチャ」を使って正当化する枠組みと変わらない。

しかし「ガチャ」は結果が望ましくないと感じたときの逆算用語だと思う。
大抵はスタート時点ですぐに使わない、言わない。
仮にスタートから使っているとしたら、
勝手に最初から諦めて、勝負を降りているのかもしれない。
それは物理的なスタートの前だけれど、
未来の自分の姿をイメージしてしまっていて、
そこからの逆算で使っているから、精神的にはスタートしている。
そうして、途中までイメージしたときに、
望ましい結果が得られなさそうだと感じて、そこから逆算して使っている。

だから「ガチャ」は逆算用語だと思う。
行動に移さずに、想像の時点で諦めて、
そうして「ガチャ」を使って正当化する。
行動を選ばずに、諦めを選んでいる。

本当に行動してみて、本気で努力してみたとき、
目の前に広がる景色は意外と鮮やかかもしれない。
鼓膜に届く振動は意外と心地よいかもしれない。

実際に行動してみたときに受け止める現実は、
まんざらではないかもしれない。
そのとき「ガチャ」なんて言葉に頼る人はいないかもしれない。
そのとき「ガチャ」なんて言葉で自分の心を守る必要はないかもしれない。
そのとき「ガチャ」なんて言葉は思い浮かばないかもしれない。

多分、「ガチャ」を使いたがる人は、本気を避ける人なんだ。
真剣に取り組んだときの失敗が怖くて仕方がない人なんだ。
本気や真剣は「ガチ」ともいう。
それを避けたり、怖がったりするのは「ガチ」を「嫌がっている」から。
つまり「ガチ」「嫌(イヤ)」。くっつけると「ガチィャ」になる。

でも本気や真剣の先の世界は、行動してみないと分からない、見えてこない。その先の世界こそ何が飛び出してくるか分からない「ガチャ」のはず。
こっちの「ガチャ」は本来の「ガチャ」に近いかもしれない。何が出るか分からないワクワクの「ガチャ」。

「ガチィャ」から脱却して、真なる「ガチャ」を楽しもう。

#つれづれ   #コラム

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