「個人」と「全体」について。

例えば、小さい時「これ嫌いだから食べたくない」ってなった時、親や教師から「食べたくても食べれない人が世の中に沢山いる」って怒られた事ありますか?怒ったことはありますか??

食べ物の好き嫌い程度なら、「全体」と「個人」を比較しても、まぁ、さほど問題は無いだろうけど、これが、思春期の子がリスカしてたり、鬱で死にたいってなってる人だったりに、「世界」と、苦しんでる「個人」を比較するのはお門違いだし、とても危険なのよね。

っと言うのも、苦しんでる本人にとっては周りが見えなくなってて、知らないどこかの誰かと比較されてもピンっと来ないし、比較されればされる程、自分の情けなさ?弱さ?が際立って余計に思考がマイナスになっていくのよね。

リスカする子、鬱、ブラック企業にヤられた奴、発達障害、家庭環境などなど、、、理由は様々だけどさ、誰にだって苦しい、辛い時期ってのはあるけどさ、そんな時に叱咤激励しても、マイナスなのよね。

たった「今」死にたいほど苦しいのは自分自身であって、そこを生きたくても生きれなかった命、満足に物を食べられない人々とか他の誰かと天秤にかけられると、自分自身を否定されてると感じるのよ。

死にたいってのは、ある種の生きたいと思った欲求の末の答えだから、本心では死にたいわけじゃなくて、生きたいの。生きたいから「死にたい」って言葉が出るの。
ただ、誰にでも言うわけじゃないの。
やっぱ「死にたい」って言葉の重みを分かってるからか、否定されそうで、怒られそうで、その言葉すら言えないでいる。
それでも、ふとした瞬間に言っちゃう時がある。

リスカとか言葉とかに表現されてるうちは、まだ、生きる気力が残されてるんだよ。残された生きる気力で誰かに救いを求めてるの。
自殺する奴は何も言わずフラッと死んじゃうから。

そこで「死にたい」っという言葉の本心も理解せずに、「個人」の思いを「全体」と照らし合わせて天秤にかけて説教しだすのは、ハッキリ言って、間違い。誰も救われない。

もしかしたらさ、死にたいって言うてる奴に、リスカしてる子に、説教したい気持ちを少し置いといて「そうだね、あなたはとても苦しかったんだね。頑張ってきたんだね。」って、理解者が現れた時、時間はかかることもあるだろうけど、プラスの方向に転換し、それこそ、万に1つの確率でもボランティアとかしだして、満足にご飯が食べれない人達の支援とか、目に見える病気や事故で満足に生きれない命を看護したり介護したりする仕事につくかもしれないじゃん。
目に見えない苦しさや、病気を抱えた奴らの救いになるようなカウンセラーとかそんなのになるかもしれないじゃん。
そうなったら、「個人」だけじゃなく「全体」も少なからず救われるかもしれないじゃん。

そこまでいかないと、よく言う「世界には不幸な子が沢山いる」とか「生きれなかった命が沢山ある」って言ったところで、未来に可能性のある人も、世界も救われんのよね。

僕が生きてきた道の中で、よく聞いてきた言葉に対しての、反論。っというか、想いを書き記してみた。

ここまで、あくまでも死にたいと思うほどの辛さや苦しさを抱えた「個人」にスポットを当てて書いたけど、それだけだと、ただ苦しいのは自分だけだと被害妄想に囚われてるだけの奴が書いた言い訳。みたいだから、「死にたい」っと聞いた方の身の事も少し書きたい。

そりゃ、聞く方も人間だもん。
言う方はさ、ギリギリで生きてて誰かに救いを求めて言うけどさ、相手との関係性もあるし、親しい仲ほど聞く方だって、聞いた時の気分や状況で言葉が変わるよね。

カウンセラーならともかく、こっちは専門家じゃないただの人間だもん。感情はあるし、曲げられない考え方もあるし、人間関係の中で生きてて嫌いな奴だって、気に食わない奴だっているし、比べるもんじゃないがこっちだってしんどい時もあるから、ゆっくり話聞けない時もあるし、余裕ない時だってある。

それを抑えて、誰かを腫れ物に触るように接するなんてやってられん。

こっちの身が持たんわ。

っとも、余裕がない時は思うわけですよ。

ホントにね、誰にでも優しい聖人君子のような人が居たら世界はどれほどビューティフルになるのでしょうか?

正直、この記事を眠らせておこうか、ブログに載せようか、迷いました。
今も、載せてよかったのかなっと迷いがあります。
っと言うのも、批判めいた事を書くと、友人、知人、今まで知り合って来た人の中で、俺のことかな?、私のことかな?って不愉快にさせてしまう可能性がある記事だと思うから。
今まで、SNS上の限られた言葉で、語彙力のない俺は、いろんな人を不快にして失敗してきたから。

そして、今回書いた内容はホントに身近に根付いてるよく言われる言葉だから誰にでも思い当たると思うし、俺自身も時々思っちゃう、言っちゃう言葉というか、島国特有の考え方なのか「個人」より「村全体」。「個人」と「全体」を比較するという植えつけられた思考があるから。

批判をしたかった訳じゃなく、嬉しいこと、悲しいこと、幸せな事、不幸な事、苦しさや、切なさ、愛や、喜び、っといったものに、誰かと比べて一喜一憂するよりは、たった今、そう感じてる個人が自分の感じている気持ちを大切にし、目の前の誰かの「個人」をも認める事で、自分自身も、自分に関わる人も幸せの方向に進んでいけるんじゃないのかな?、こうすればもっと優しい世界になるんじゃないのかな?っという提案も込めて載せてみました。

言葉だけじゃ世界は変わらんけどね。

俺が個人のブログで問題提起しても、相変わらず世の中は同じ時間軸の中で誰にでも等しく勝手に地球はぐるぐる回ってるんだけどね。ぶっちゃけ。

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