競馬ファンの全盛期

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ナリタブライアンのダービー

こうして「競馬ファン」となった自分の前に、最初に現れた伝説的な名馬が、あのシャドーロールの怪物ナリタブライアン。ブライアンが勝った日本ダービー当日、生粋の「競馬ファン」となってしまっていた私は、東京競馬場のゴール板前、ブライアンの息使いが聞こえるほどの最前列にいた。

が、このレース、私が握りしめていた馬券は
ブライアンでなく、ナムラコクオ―の単勝だった

「なぜ、コクオーの単勝だったのか」…これは、今のように「馬体や馬券ロジック」から導かれた結論ではない。確かに、ナムラコクオーは、そのサスペンション長さや美しい全体シルエットなど、東京2400も問題ない素晴らしい馬体の持ち主だった。が、当時は、そうした「馬体」の造り以上に、単純に、その強そうな名前(北斗の拳のラオウの馬「黒王」)と、パリスナポレオン以下をちぎった重賞の走り、このイメージが後押ししていたと思う。

ちなみに、「相馬観」を身に着けた今でも、「馬体からダービーでナムラコクオ―は買えるのか?」と問われれば、「YES」と答える。それほど素晴らしい馬体逸材だった。

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確かにブライアンは強い。が、この「馬」というより、「黒豹」のような馬体は、サラブレッドの美しさではない。コクオーの馬体にこそ「馬らしい」美しさとスケールがある

ナムラコクオ―は、ダービーの後、屈腱炎を患いながらも重賞を勝ち、さらに、中央から地方の高知競馬に移籍している。実は、何度かコクオーに会いに、高知競馬場に足を運んだことがある。高齢となっても、コクオーの馬体は、地方馬のなかではズバ抜けた軽さを保っていたのが印象的だった。彼の写真も何枚か残っているはずだが。改めて思うが、この当時の馬には本当に愛着を感じていたのだなと。


運命の1cm

そして、いよいよ今もって最も好きな馬であるエイシンワシントンとの出会いがある。ブライアン、コクオーと同期である彼は、デビュー当時から、群を抜く特徴(長所)を持つ馬だった。「抜群の首差しの造り、そこからの筋骨隆々の馬体、首の返しがいいピッチ走法」など、ナムラコクオーとはまた違うタイプの造りで、「間違いなく重賞、否G1を獲れる!」と感じた馬体でもあった。

そして、現実にG1馬となる最大のチャンスが訪れたのは、デビュー後3年目のスプリンターズS。


ご存じの通り、このレースでエイシンワシントンはいつも通りロケットスタートを決め、逃げの一手で最終コーナーをまわり、最後の直線も抜群の手応えで先頭を走りながら、最後の最後ゴールの瞬間、G1史上最短着差となる「わずか1cm差」で1番人気のフラワーパークに敗れてしまう。1200mのうち、1999.99mまではトップで駆けぬけていながら、最後の1cmで交わされてしまったわけだ。

今見返しても、態勢はエイシンワシントンが残っており
負けたなどとは、到底思えないのだが…

このレース、私は後楽園のウインズで観戦したのだが、今をもって自己最高額の賭け金をエイシンワシントンの単勝1点に突っ込み、夢破れている。その金額は、当時の自分の給料の数か月分に相当、日常生活を破たんさせるに十分な額だった。「大丈夫、完全にエイシン態勢有利!当たれば帯確定!どころではない…」そんな儚い夢を、写真判定の結果を待つ間、念仏のように頭で唱えていた気がする。そんな鬼気迫る姿を知ってから、見知らぬおじさんに、「大丈夫兄ちゃん、エイシン残ってるよ」と勇気づけられた記憶が残っている。

その後、どうやって後楽園を後にしたのかなど、ほぼ記憶がない。結果として、こんな破滅的な賭けをしてしまったツケもあり、このレースを最後に「競馬ファン」から少し遠のくことになる。

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