【憲法はコーランなのか】

憲法記念日。制定から74年目。
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日本国を家に例えれば、憲法は「梁」のようなもの。
国の揺るぎなき骨格をなしている。
それにしたがって、部屋も空間も出来ている。
梁がなければ家は壊れる。
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74年間、日本は、この「梁」をまったく触らなかった。
というか、触ってはダメ、という時代だった。
国民主権、平和主義、基本的人権の尊重。
呪文のように叩き込まれた。
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他方で、時代は変わる。
風雨にさらされた家の「梁」は傷んだり、間尺が合わなくなることもある。
コロナ禍で、憲法との兼ね合いで強い措置を採れない。
災害のとき、想定外の状況に対応できない。
中国が強大化しても、なかなか明確な対抗措置を採れない。
デジタル化が進んでも、私たちの個人情報や行動は守り切れない。
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色んな時代の変化と、「梁」である憲法とのギャップは見えてきている。
ゆえに、憲法改正に賛同する声も大きくなっている。
「改正する方がよい56%しない方がいい40%(今朝の讀賣新聞)」
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そもそも、憲法とは、国家権力から個人の権利を守るためのものとして始まった。
時代が変われば、国家も変わる。
個人を守る方法も変わる。
なのに、憲法は、あたかも、権力側の為にあるかのように認識されがちだ。
日本では、74年も、まったくその「梁」を変えていないし、そのための議論もスタートしていない。
その間、同じように、第二次大戦に敗れたドイツは62回も憲法改正をしているのに。
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「護憲」ってなんだろう?
大事なことを守るのは当然大事。
でも、護ること自体が目的化していいのだろうか。
憲法はコーランでも、聖書でもない。
経典のように、指一本触れない、というのはおかしいだろう。
時代とともに、変わっていく余地は十分あるはず。
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憲法問題を議論すること、その賛否を問うことほど、
国のカタチを真剣に考える機会はない。
喧々諤々、国の在り方について正面から議論を戦わせる絶好の機会はない。
民主主義の面目躍如である。
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大事なものを守りながら、常に前進し続ける国でありたい。

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