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倉庫街の悪夢〜家族介護敗北考

 

 公的介護には限界があります。高齢者を保護するための制度ではないからです。あくまでも、介護、なんです。それに在宅の場合、実態は介護というより介助です。よりよい環境と高度な介護を求めるのであれば有料老人ホームを「利用」してください。

 これは以前、訪問調査に来られた調査員の言葉である。おそらく真実であり、本音なのだろうなあと思う。この国に限ったことではないが、また、高齢者に限ったことではないが、弱者保護とは旗に書かれた文字であり、実のところは弱者捨て置きが、おおかたの現状なのかもしれない。

 高齢者は困窮の度合いにかかわらず、制度によって保護はされない。保護するのは警察と救急と病院だけ。警察と救急は徘徊等でさまよっているお年寄りを一時的に保護するだけで、介護は当然しない。

 疾病等の急患であれば病院で三か月程度は預かってくれるが、快癒の見込みがなければ放り出される(法改正のため現在は一か月に短縮されているらしい)。

 介護は家族(配偶者と実子)の義務。だから、家族が自分で介護するか、お金を払って人に介護してもらうか。ということになる。

 人に介護してもらう場合、資金を九割がた援助してくれる、それが介護制度。(注! 2022現在、利用者の負担は増加している)

公的介護なしで家庭内介護をしている家族の場合、家族を助けてくれる制度はない。

 このあたり、勘違いすると、制度とうまく折り合えませんのでご注意くださいね。

 介護制度は「利用」するもの。誰が? 配偶者ないしは実子が。というわけです。
 とりあえず、このコラムに登場するGBのように自宅籠城型高齢者が「介護無用!」と頑固に主張した場合、介護する側も介護される側も、誰からも助けてもらえない。ということは覚えておいてください。
 GちゃんにもBちゃんにも「年とったら娘がなんとかしてくれるでしょ」それが当然。という思い込みがあった。わたしにもあった。問題なのは『娘がなんとかしてくれる』の正確な内容は『娘だけに面倒見てもらいたい、他人はイヤ』という限定付き条件だったことだ。
 介護制度の利用が遅れ、初動でつまづいてたいへんな事態になるまで、この思い込みの理不尽さにわたしも気付かなかった。道徳観念とか刷り込みってやつはじつに始末が悪い。

 ちなみに、ヨメには介護義務はない。舅姑夫&夫の親族連合軍が、我が儘を押し通して公的介護を拒否したときは、ヨメは(いればorなるべくor できれば・子連れで)逃げ出しちゃってもいい。と思います。難しいとは思うけど。
 家族・家庭・介護の両立や全体の運営を考え、公的介護を利用して施設利用も視野に入れて負担の少ない介護計画を立てたい妻と、自分の親の介護は妻に全部やらせて自宅介護が当然と考える夫のあいだで意見が食い違い、一致を見ないまま離婚まで進んだ例もある。夫の親のことで、夫の口から「介護」の二文字が出たら、妻も覚悟を決めないといけない。往々にして全部引き受けるか、全部投げ捨てるかの二択です。

 ただし、自分の親の介護からは、逃げられない。踏ん張るしかない、ということになる。

 そこで次に、GBの公的介護利用以前、すなわち家族による介護の弊害を思い知らされた、ひとつの騒動について記してみたい 包囲網戦より約二年前の2008年盛夏。ひとつの変事があった。

 倉庫街の悪夢

 と名付けたその変事のあらましは以下の通りである。

 夏の日の午後、Gちゃんから電話がかかってきた。

『バーサンが病院の帰りに倒れて歩けなくなっちまってよ。オメー、どこそこの倉庫前まで車で迎えに行ってこい』
と言うので驚いて、

「倉庫って何? Gちゃんはどこにいるの?」

『俺は家だ』

「Bちゃんは?」

『だから、どこそこ倉庫の前の道路で寝てらぁ』

 冗談じゃありません。この炎天下で倒れて寝てたら死んじゃうぞと、それこそ吹っ飛ぶようにして(しかし車で三十分、)どこそこ倉庫へ駆けつけた。

 真夏の昼さがり、倉庫前の路上にBちゃんはいない。Gちゃんの陰も形もない。このあたりの倉庫街には不案内な私である。Bちゃんを呼びながら倉庫街路を走り回った。

「ここだよ~」と、弱々しいBちゃんの声が聞こえたときには、安堵のあまり腰が抜けそうになった。

 Bちゃんは路上に放置されたあと、転がったまま失禁してしまったらしい。路上に丸く黒っぽいシミがあった。Bちゃんは恥ずかしさのあまり、そして心細さのために、倉庫の小屋陰に隠れていたのである。

 脱水が案じられたが、まずは意識があってよかったと、家に連れて帰った。

 Gちゃんはといえば、帰宅後、風呂の残り湯で水浴びして着替え、団扇であおいでさっぱりと、籐椅子でひとり悠々とくつろいでいた。

 Bちゃんにスポドリを飲ませ、落ち着いてから、Gちゃんを詰問した。

「この暑さの中、なんで倉庫なんかに行ったの?」

「いや、電話がなかったから」

 なんだそりゃ。わけわからん。

「どこに、電話がなかったの?」

「今日、行った病院」

 なんと、直線距離でも5キロはある病院へ、Bちゃんを往復歩かせたらしい。往路だけで3時間かかったそうである。

 帰路、Bちゃんは自宅まで1キロのところで力尽き、気分が悪くなって倒れてしまったらしかった。

「電話がなきゃ、受付にタクシー呼んでくださいと、ひとこと頼めばいいじゃんか!」

 あまりのことに思わず私も声が大きくなった。

「タクシー? バカ言うな、そんな無駄遣いできるか!」

「Bちゃんは倒れたんだよ? すぐに救急車でしょ? 私の家からここまで、三十分はかかるんだよ、間に合わなかったらどうするの!」

 するとGちゃんはにっこり笑って自分の頭を指さした。

「へッ、オメーを呼べばタダだからな。そーゆーとこ、俺は頭がいいンだよ」

 罵倒してはいけない。Gちゃんにきつく当たれば、私に見えないところでBちゃんにとばっちりが行く。心の中で三発くらいGちゃんを殴って諦めた。

 その後の調べで、その折りの病院には、受話器を上げるだけでタクシー会社に無料でつながるという、便利な電話があった。

 Gちゃんが臆せず受付に一言聞けば、問題は起きなかったはずである。

 というわけで、以上のことがらを分析すると以下のようになる。

 Gちゃんは病院の受付で事務の人に、「電話、どこですか」と聞くのが怖かった(家の外ではノミの心臓)。

 加えて、タクシー料金を払うのがイヤだった(ケチ)。

 さらに加えて、救急車を呼ぶと「自分も暑い路上にいなくちゃいけない」。

 で、自分だけ帰宅して水浴びしてるうちには、ムスメがバーサンを探し出して帰ってくるべ。と踏んだのである。

 その予測の通りに私はBちゃんを探し出して、家に連れて帰ってきたのだから、

「よっしゃー、俺の読みは正しかったぜ」

 Gちゃんにしてみれば、そういう結論になる。

 これが、家族介護の最大の害悪だ。

 GBのどんな危機も問題も、行動力のあるムスメが、おっとり刀で駆けつけて、なんとかして解決してしまうから、GちゃんもBちゃんも、

「このままでいい、なんの問題もない」

 と、思い込んでしまうのである。

 これは、介護的には敗北。である。

 また今回、表面化した問題は、Gちゃんの心の中で、何が大事か、という優先順位がおかしくなってきていること、お金が人命に優先しているという変化が起きつつあるということだった。

『信じているのはお金だけ。大切なのは自分だけ』

 というGちゃんの自己保全の殻が、いつ頃からこうも硬くなってきたのか、はっきりとはわからない。若い頃からその傾向はあった。年を重ねてさらに顕在化したのかもしれない。

 Gちゃんの幼少時あるいは人格形成期に、そうあらねばならぬ、というような環境ないしは状況があったのだろう。善悪で両断してはいけない、と思った。

 会社勤めをしていたころは、社内では勤勉寡黙それなりに、定年まで勤め上げた人である。しかしこのままではBちゃんが危ない。天秤の皿に乗せられているのはBちゃんの命なのである。なんとかせねば。

 倉庫街の悪夢のあとで、解決の方策を探していた私は、介護の本、認知症の本、インターネットと片っ端から調べ漁って、GBの保護方法を模索した。

 しかし決定打は見つからない。思いあまってBちゃんGちゃんの平時の通院先の個人病院へ行って相談した。

 日頃から特にBちゃんの状態を案じてくださっている先生が、こうおっしゃった。

「家族の介護が手厚いと、よそからの介護の手は、入りにくいものなんです。何かあったら娘さんを呼べばいいと、お父さんお母さんは思ってる。特にお父さんは他人を警戒し、公的介護の手を拒む気持ちが強い。あなたがご両親のために一生懸命になればなるほど、ふたりは安心して満足し、ふたり共が家の中に引きこもり、夫婦ふたりだけの世界を築いてしまって、社会から離れてしまい、その結果、認知症がさらに進行して、危険度は高くなるのです」

 つまり過保護は親のためならず。

 むしろ私の補助がGBを悪化させている、ということである。

「多少のリスクは仕方がない、そう腹をくくってください。少し突き放してご両親の様子を見てみることも大事です。お父さんが、これはダメだ、自分ひとりでは立ちゆかないと音を上げるときが来るでしょう。そのときが介護を入れるチャンスです。さあ、あなたも覚悟を決めて。がんばってください」

「少し突き放して」、この「少し」の加減が難しい。距離のとりかたを模索しつつ、様子を見ることにした。

 二〇〇八年夏の倉庫街の悪夢はかくして終結した。

 その二か月後に早くも次の変事が出来することとなる。

 GBの二回崩れ である。二〇〇八年秋にそれは勃発し、以後半年間あまりにわたって二家族を振り回す騒動となった。

 GBの二回崩れ〜介護申請失敗 へ続く



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