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夜襲はじまる


 Bちゃんの飲み忘れ薬の残量を記入した紙を持ち、私ひとりで病院へ向かった。

 受付に紙を置いて帰ろうとすると、
「あとで先生からお話があります」
 ということで、しばし待った。
 やがて午前の診察がほぼ終わり、先生は私を診察室に招き、

「お母さんはもう自立は無理だと思います。できれば介護の手厚いホームに入るのが、いいと思うんです」

 日頃からBちゃんを案じてくださっているお医者さんの言葉である。
 たしかにそうだと私も思う。

「そうですね……」

 とは言ったものの、Gちゃんがお金に執着し、Bちゃんは家にしがみつき、ホーム入所を受け入れるかどうか。

「じつは、昨日から父が眼科に入院してまして」
「じゃ、お母さんは今、ひとり、なんですね。介護はどうしてます?」
「昼前から夕方までが私で、夕方から夜はヘルパーさんが入ってくれています」
「そう……夜はひとりなのね。ちょっと心配かなぁ」

 先生もため息をつく

「もう記憶が保たなくて、父が入院したことを覚えていられないみたいで」
「うんうん」
「夜、十五分おきに、Gちゃんがいないと言って私に電話かけてきます」
「だめよ。そんなこと続けていたら、あなたが病気になっちゃう」
「え、私?」

 思いがけない先生の言葉だった。

「今だけお母さんを保護するという名目で、入院させておくという方法もありますから。心にとめておいてね。紹介状は私が書きます。いつでも来てください」

 ありがたいことである……。

「倒れる前に来るのよ。あなたが倒れたら、家族全員、倒れちゃう。無理しないで」
「はい。頑張ります」
「もう! 頑張らないの!」

 笑い声があがって、なんだか元気が出た。

 もう一度、Bちゃんの様子を見て、その日は帰宅した。
 夕方、ヘルパーさんが入り、昨日と同じように八時過ぎに、火の元確認しましたと電話がかかってきた。
 しばらく待ってみたが、十五分を過ぎてもBちゃんからの電話はかかってこない。

 Gちゃんの前回の入院のとき、Bちゃんは三日後に元気になった。今回も落ち着くだろうか。
 案じつつ家事を終えて『徳川家康』の一巻目を開いたとき電話が鳴った。

「Bちゃん、どうしたの?」
 するといきなり
『どうもこうもないよ!』
 罵声が受話器から響いた。

『アンタ、お父さんをどこへやったのさ!』
 かなり怒っている。
「どこって……病院」
『連れて帰ってきてよ!』
「うん。連れて帰るよ」

 こういうときは逆らわないのが一番。何を聞いても十五分たてば忘れてしまう。だから無理な要求でも、「ハイハイ」と言っておくのである。

『だいたいね、アンタは昔っからそうだった。アタシのことバカにしてるんでしょ』
「でもないけど」
『けど、って、何さ、はっきり言いなさいよ』
「歯、磨いてるんだよ。口、ゆすいできていい?」

 バカにしてるんでしょと言われて、逆らわずにハイそうですと答えたら、それはさすがに不味いので、こんな変な会話になるんである。

『さあ、言いなさいよ。あの人をどこへ連れていったの』
「うん? 病院」
『アタシ、そこへ行くから』
「うん。行っておいで」
『一人で行くからね。アンタなんかに頼らないから!』
「うんうん。そうだね」
『本気にしてないでしょ』
「うん?」
『どこの病院なのよ!』
「○○県」
『○○くらい、なんなのさ!』
「そうねえ」

 ガンガン言い続けて、息切れしたらしく、しばしの間があった。

「もう寝ようよBちゃん」
 そろそろいいかと思って呼びかけると、
『寝るわよ、言われなくても。アンタと話してたって、面白くもなんともない!』

 唐突に電話は切れた。電話を横に置いて本を開く。於大姫が水野の父上と話している場面で、再び電話が鳴った。

『アンタ、うちの人をどこへやったのさ!』

 この日この繰り返しが十二時過ぎまで続いた。
 怒りは夜更けまで持続し、最後まで機関銃Bちゃんだった。
 元気だなあ……。驚くほどの体力である。

 翌朝。
 Bちゃんの家に行くと、小屋脇にゴミ袋が積んであった。

「このゴミどうしたの?」
「わかんない」
 Bちゃんは不思議そうである。
「Bちゃん、今朝、ゴミ出した?」
「うん。出したよ」

 出し忘れたぶんかな? おかしいねと言いつつ、袋を移動しようとして気がついた。

 燃えるゴミの指定袋の中に、プラスチックトレーと空き缶が入っている。ゴミ収集車の作業員さんが、分別されていない袋を残していったのだろう。ご近所さんが気づいて、ここへ戻してきたのかもしれない。

 GBはゴミの分別をせず、燃えるものも燃えないものも一緒にして出すから、しばしば戻されてしまうのだ。袋を開け、分別をして、燃えるものは私が帰りに市の焼却場へ運ぶことにした。

「何してるの?」
 Bちゃんが窓から顔を出す。
「ゴミ、分けてるんだよ」
「アラなんで?」
「缶は不燃物、トレーはリサイクル。生ゴミは燃えるゴミ」
「面倒ねえ。アンタとこもそう?」
「そうよ。不燃物ゴミを出すところが遠くてさあ、朝八時には回収に来るから、うっかり寝坊すると大変。缶とビンがたまるたまる」
「ビンは重いよね」
「そうなんだよ」

 昼間はこうしておだやかに話せるのだが……。
 この夜もBちゃんは夜討ち電話をかけてきた。
 多少の強弱はあったが、前日同様、怒りが激しかった。

 そして夜討ちはこのあとも、夜九時から十二時まで、定期便のように続いた。
 昼は実家で介護、夜は電話の応対でときが過ぎ、私の家の中も荒れ放題である。

 どうも夜がいかん。変なスイッチが入る。
 怒りが習慣になっているとしたら、どこかでスイッチを切り替えねば。

 昼間、私と一緒のときは穏やかなので、もしかしたら怒スイッチが入るきっかけは『孤独』だろうか、そう考えた。

 Bちゃんは私の家に来たがらない。だとしたら私が夜もBちゃんの世話をしに行くか。

 たとえば……

 夜八時、ヘルパーさんが帰る頃、実家へ行く。
 深夜十二時、Bちゃんが寝たら自宅へ戻る。

 朝四時起き、五時発の家人を送り出す。
 朝五時過ぎ、Bちゃんの朝食と薬の世話をする。
 朝七時に自宅へ戻り掃除洗濯その他もろもろ。

 昼前、Bちゃんの昼食、買い物と通院。

 夕方五時、ヘルパーと入れ違いに自宅。
 夜八時、ヘルパーさんと交代で実家。
 深夜十二時、Bちゃんが寝たら自宅へ。
 少し寝て四時起きして五時発の家人を……。

  ンなこと、できるかあッ……!

 二家族の円滑な運営なんて、どう考えても無理である。
 それに、今回のBちゃんの混乱は前回のそれとは傾向が違っていた。
 前回は、Gちゃん入院後にBちゃんは三日間、静かに落ち込んで、四日目に急に明るくなり、そのあとはずっと元気だった。
 今回は昼間ぼんやり低空飛行気味で元気が足りず、夜間ひたすら怒っていて、高高度飛行の元気なれど、平常心に戻らない。

 怒りは一時的に人を元気にさせる。ただ元気に見えるのはうわべだけで、Bちゃんの脳は夜ごとの怒りに蝕まれ、疲れているんではなかろうか。
 この怒りが途切れるときが危ないかもしれない。というようなコトを考えていたら……。七日のあと、それは突然キた。

 Bちゃんの夜間徘徊が始まったのだった。

Gよりメロン に続く

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