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伊藤雅俊の商いのこころ 第10回




伊藤雅俊の商いのこころ 第10回


ヨーカ堂は上場し、大企業になってから、世間の厳しい目に晒されることになりました。

総会屋対策は上場企業にとって、頭痛の種でした。

そんな折、ヨーカ堂は、総会屋に利益供与商法違反の容疑で、逮捕者を出しました。

狙い撃ちされたというべきでしょう。

伊藤さんは回想しています。

「大企業になったヨーカ堂を見る世間の目と、中小企業経営者の意識が抜けない私自身の間にズレが生じて、問題意識と対応を鈍らせた面もあるだろうと思います」

1992年(平成4年)10月、総会屋に利益供与した商法違反の容疑でヨーカ堂の監査役と幹部社員が逮捕されたのです

堅実経営の静岡銀行が注目を集めるのは、バブルが弾けた1990年代以降です。

ヨーカ堂はバブルにはまみれませんでしたが、バブルが破裂して日本中で矛盾が噴出しはじめたころ。痛恨の事件が起きました。

1992年(平成4年)10月、総会屋に利益供与した商法違反の容疑でヨーカ堂の監査役と幹部社員が逮捕されたのです

『伊藤雅俊の商いのこころ』 p. 136 


大企業になったヨーカ堂を見る世間の目と、中小企業経営者の意識が抜けない私自身の間にズレが生じて、問題意識と対応を鈍らせた面もあるだろうと思います

確かなのは、時代もヨーカ堂も大きく変わったということです。談合や接待などが厳しい世間の指弾を浴びるようになったように、清濁併せのんだ時代の社会通念が今は否定される時代です。大企業になったヨーカ堂を見る世間の目と、中小企業経営者の意識が抜けない私自身の間にズレが生じて、問題意識と対応を鈍らせた面もあるだろうと思います

『伊藤雅俊の商いのこころ』 p. 137


うわべだけの、いいことだけしか書かない社史というものが、私は嫌いなのです

ヨーカ堂にはまだ社史がありません。戦後の創業から50年余の社歴の会社ですから、社史がなくても不思議はないのですが、小売業にとってこの間の急激な変化の連続は戦国時代が続いたようなもので、落ち着いて過去を振り返る余裕などなかったからです。

それだけではなく、うわべだけの、いいことだけしか書かない社史というものが、私は嫌いなのです

『伊藤雅俊の商いのこころ』 p. 139



⭐出典元 『伊藤雅俊の商いのこころ』


➳ 編集後記

この記事を最初にアメブロに投稿したのは、10年前(2014-04-30 23:37:23)のことです。

伊藤雅俊さんは2023年3月10日に逝去しました。享年98歳でした。
ご冥福をお祈りします。


伊藤さんは自分のことを評して「ペシミスト」と語っていますが、経営者は最悪のことを頭に入れてじっくり考え、決断出来たら速やかに実行するという責任があります。それができなければ経営者になるべきではありません。

日本株ストラテジストのピーター・タスカ氏の「賢者は最善を望みながら、最悪を覚悟する」という言葉が蘇ってきました。


🔴「1992年(平成4年)10月、総会屋に利益供与した商法違反の容疑でヨーカ堂の監査役と幹部社員が逮捕されたのです」

当時は、総会屋が幅を利かせていて、株主総会の席上で、無茶な要求をすることがありました。総会屋が総会の席で騒ぎを起こすことを防ぐために利益供与(お金を渡し、黙らせる)していたことが、発覚したのです。

現在では、総会屋は表立ってはいません。いないというよりも締め出されたため、総会に出席することは出来なくなりました。

総会屋に取って代わったのは、アクティビスト(物言う株主)です。
彼らは、「ある事業が本業の足を引っ張っているので、分社化するか、売却せよ」と要求します。収益性を向上させ、株価を上昇させるためです。

日本の現状の株式保有に関するルールに、「5%ルール」というものがあります。発行済み株式の5%を超えて保有したら、内閣総理大臣等に届けなければならないというルールです。

5%を超える株式を保有すると大株主として、会社四季報等の株主蘭に掲載されます。

5%ルール

ある上場会社の発行済株式総数の5%を超えて実質的にその株式を取得した者は、原則として、取得日から5日以内に内閣総理大臣等に対して大量保有報告書等を提出しなければならず、また、大量保有報告書を提出した者は、その保有割合が1%以上変動した場合にも、同様に変更報告書を提出しなければならないことを定めた制度をいいます。
この制度は、市場の公平性・透明性を高め、投資家保護を一層徹底する観点から、株券等の大量の取得、保有、放出に関する情報を迅速に投資家に開示することを目的として1990年に導入されました。

日本取引所グループ 用語 5%ルール


伊藤雅敏さんの話に戻しますと、総会屋への利益供与事件が発覚後、伊藤さんは社長を辞任し、相談役に退きました。

ただし、伊藤氏は創業家ですから、イトーヨーカドーから完全に手を引いた訳ではありませんでした。

次の記事をご覧ください。その後の経緯が書かれています。

1992年に総会屋への利益供与の責任をとって伊藤氏は社長を辞任したが、そのかなり前から実質的には鈴木氏にバトンタッチしていた。

「臆病で心配性」を自認する伊藤氏とは対照的に、鈴木氏はコンビニ、後には銀行などの新事業へ果敢に挑んでグループを拡大していった。伊藤氏は経営者としてのエゴを封印して、有能な部下にかじ取りを委ねることでグループを大きくする道を選んだといえる

イトーヨーカ堂創業者が愛誦した「商人」の極意 
東洋経済 ONLINE


社長辞任後に相談役に退いていた伊藤氏は、1996年にヨーカ堂の名誉会長に復帰した。このときの東洋経済のインタビューで「私はオーナーだから、会社のことはずっと見てきた」「少し時間的な余裕をもって、長期的なことを見なければならない、と思っている」と語っていた。流通業界が、大きな岐路に直面しているという危機感からだった。

イトーヨーカ堂創業者が愛誦した「商人」の極意 
東洋経済 ONLINE


「漬け物石」として晩年を迎えた伊藤氏に、最後の大仕事が待っていた。

2016年にセブン&アイの会長だった鈴木氏がセブン・イレブンの社長を務めていた井阪隆一氏のクビをすげ替えようとしたとき、待ったをかけたのだ。強引なトップ人事に反対された鈴木氏はあっさりと辞任を決めた。オーナーが抜いた「伝家の宝刀」の効果は絶大だった。

イトーヨーカ堂創業者が愛誦した「商人」の極意 
東洋経済 ONLINE


伊藤氏の愛誦した「商人の道」にこうある。
「商人はどこからでも養分を吸い上げられる浮草でなければならぬ。その故郷は住むところすべてである」
「先祖伝来の土地などという商人は一刻も早くそろばんを捨て、くわを取るべきである」
そこに込められたのは、顧客のニーズに合わせて変化を続ける商人としての覚悟だ。
顧客こそ最優先で、次が従業員、株主は最後だと語っていた伊藤氏は、一方で日本におけるROE重視経営の先駆者でもあった。

イトーヨーカ堂創業者が愛誦した「商人」の極意 
東洋経済 ONLINE


創業家としての気概を感じさせるエピソードでしたね。


(2,995 文字)


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