見出し画像

代書筆17 二二八事件

*二二八(に・に・はち)事件は、「戦後台湾における最大の闇」といわれる出来事です。

その時善化では

 事件が起きた時、私は村民代表会の主席をしていた。民国35(1946)年、各町村の代表会ができて、私はその第一期主席に選ばれた。政治に関わりたくないので、さんざん固辞したが、それはかなわなかった。
 二二八事件は台北で起き、次第に南部へも余波が広がった。

ある朝、私が出くわした料理店の小僧は、事件発生を知らせるために鳴らすドラと、菜切り包丁を持っていた。「これから嘉義へ応援に行く」と言っていたが、それは実現しなかったらしい。
 また、ある男は十数人を引き連れて、善化製糖(写真)を奪いに行こうとした。中国人たちの多くは素人で、製糖工場長になった者は、砂糖ひと包みが100kgという原則も知らなかった。そんなことにも、台湾人たちは不満を持つようになった*1。事件が起きるや、工場を取り返しに行こうという話になった。破壊や略奪はせず、ただ社印とカギを渡すよう迫っただけだが、のちに全員「政府転覆罪」で捕まった。印鑑とカギを渡した方も罪に問われた。

*1 きちんと教育を受けたことのない人間が、台湾に来ていきなり工場長や学校長、警察署長になったそうです。

 これ以外、善化では特に何も起きていない。鎮圧軍の南下を阻止するために、曽文渓の鉄橋を破壊しようという話も出たらしいが、リーダー格がいなくて実行されなかった。とにかく私の地元では、嘉義のような激しい争いもなく、比較的平穏だった。

本文内の「善化製糖」の日本統治時代の様子。
当時は台湾製糖の一工場でした。

戦後台湾に残した暗い影

 しかし、台湾全体の犠牲は大きかった。治安維持委員会*2のエリートや名士たちは、ほとんどが殺された。林茂生*3は民を扇動した悪人とされ、どこでどうやって死んだか、未だに不明である。

 台南の弁護士・湯徳章は、父は日本人で、母は玉井出身の台湾人だ。彼はとても優秀で、日本時代は警部補になって重要な事件を担当、のちに弁護士に転職した。私は代書屋をしていたから、彼とは顔見知りだった。事件当時は、林茂生と同様に治安維持に忙しかったことを知っている。
 のちに彼も殺害された。黒い旗をさして台南市街を引き回され、民生花園(今の湯徳章記念公園*4)で銃殺され、遺体は3日間さらされた。台南や嘉義では多くの人が殺された。とにかく先頭に立った者や、力のあった者は危ない目に遭いやすかった。

 事件後、政府は処理委員会をつくったが、私は関わりたくなかったので村民代表会を辞めた。以後、誰かがことを起こそうという時や、暴動に誘われた時も、私は一切相手にしなかった。

*2 事件の直後、台湾人名士によって成立。これ以上台湾人の犠牲を出さないよう、市中の鎮静化に奔走していたにも関わらず、主な委員は逆に民衆扇動の罪を着せられました。

*3 委員の一人で、事件後から行方不明のまま。

*4 日本時代は、第4代総督・児玉源太郎の石像が立ち、大正公園と呼ばれました。戦後は民生花園に改称され、孫文像が立ちました。1998年、湯徳章の功績を記念してこの名に変更、現在は彼の半身像が立っています。

◎この事件がきっかけで、日本時代に高等教育を受けたエリート層や反政府者が次々と逮捕、殺害されました。犠牲者の数は数千~10万人といわれ、真相は今も明らかになっていません。あくまで偶発的に起きた事件ですが、国民党は台湾支配を固める上で邪魔な、将来民衆のリーダーになりそうな人々を一掃する口実にしたわけです。同時に思想・言論を統制すべく、1987年まで世界最長の戒厳令を敷きました。台湾で今日のような自由が認められるようになったのは、1990年頃からといわれます。

いただいたサポートは、記事取材や資料購入の費用に充て、より良い記事の作成に使わせていただきます。